という曖昧な供述しか得られていない。ただし被害者の証言によると、実際に犯人との間には過去にトラブルがあり、その原因は
だったという。
犯人と被害者が述べたトラブルの内容は、同一のものではない可能性がある。例え同一のものだったとしても、タメ口が事件の発端であるかどうかは、具体的な供述を得られるまでは分からない。
しかし、タメ口によるトラブルがあったことは紛れもない事実である。
私は基本的に、家族と、特に親しくなった友人にしかタメ口を使わないようにしている。小、中学生の頃は下級生に対してタメ口を使っていたが、高校生になってからは敬語で話すようにした。同級生に関しては、主に同性に対して敬語で話しかけると奇異の目で見られることが多いと学習したため、タメ口を用いる。ただし、性格が合わなそうだと判断したら、すぐに距離を取り、なるべく話さないようにする。
なぜここまで頑なに敬語を使おうとしているのか。別に相手を敬っている訳ではない。というより、これまでの人生において、敬う心をもって敬語を使ったことがほとんどない。バカな人間、どうでもいい人間、死んでほしい人間、誰に対しても敬語は使う。
敬語というものは、相手との健康的な距離を保つため/リスクを避けるためのツールであると考えている。今回の事件を通して、これが正しいものであると確信した。
「これ以上あなたと親密になる/なろうとした場合、お互いに(というか主に私が)不健康になりますから、このくらいの距離感でやっていきましょう」
ということを示す。
そして、リスクを避けること。このリスクの最たるものが、今回の硫酸事件である。
タメ口を使われたことで馬鹿にされたと感じ、犯人のように危害を加えないまでも、嫌がらせをしてくる人間はいるだろう。逆に、タメ口を使われた=相手は自分に好意を抱いている、と突飛な発想に至り、しつこく絡んでくる人間が存在する可能性もある。
いずれにしろ、敬語を使っていれば避けられるリスクを、みすみす受け入れる必要はない。
藪の蛇をつついても、訪れるのは不幸のみだ。
少々長くなってしまったが、今回私が伝えたかったことは以下の2点。
・距離感を相手に提示する種々のツールの一つとして、敬語は非常に役立つ
以上。
拙文失礼。