昔母親に言われたこと、そして感じたことが未だに脳に焼き付いている。
6,7歳くらいのときだったか。ある休みの日の晩、俺はなんか寝付けなかった。おそらく昼寝をしすぎたか何か、そんな理由だったと思う。それで布団から起き上がって、何となく、本当に何となくリビングに顔を出した。
そこにはテレビを見ている両親がいた。俺は別に言いたいことがあるでもなく、本当になんとなく彼らをボーッ見つめた(もしかしたら言いたいことがあったかもしれないが、それは覚えていない)。
そうすると母親がこう言った。
「ほら、休日なのにどこにも連れて行ってもらえないから何か言いたそうだよ」
母親はこちらを向きながら冗談ぽく言ったのだが、それは父親に向けて言った体の言葉だった(余談だが俺はこれを思い出すといまだに腹が立つ。なに人のせいにしてんだ?別に親父のせいじゃないだろ)
俺はこれを聞いて、本当にそこまで別にそんな事を思ってなかったのだが、急激に自分が可哀想な気がしてきて、泣いた。別に連れ出してくれない恨み節でリビングに来たのではない、それだけは確かに覚えている。言われた瞬間いきなり可哀想な気がしてきたのだ。
それを見てバツが悪そうにしている父親と、そこからやけに父親を責める母親(これもいまだに腹が立つ。最初冗談半分で言ってるのは子供の俺からも分かった。しかし事が大きくなったと見るや糾弾側に回ったのだ。卑怯者だなと思った。泣いた俺も卑怯だが。ただ育児の比率は完全に母親が多かった。父親は朝6時に仕事に出て深夜2時に帰ってくるような人だったから。それで俺は社会に出たくないなと思ったものだ)。
このときの感覚はいまだに覚えていて、これは《被害者洗脳》だなと、しばらくして思った。別に特別可哀想ではないし、被害者意識はなかった。ただ君は可哀想なんだと言われて、とたんにそんな気がしてきて、するとなんだか自分が優位?な気がしてきて、その立場がある意味で心地よくなるのである。
しかし罪悪感はあった。父親は父親で死ぬんじゃないかってくらい働いていたし、自分だって別にそこまで連れ出してほしいなんて願望はなかった。別に聞き分けの良いいい子とかではなく(悪ガキではなかったが)、オモチャを買ってもらうようなことのほうがよっぽど関心があっただけのことだ。
だから、自分の感情は自分でちゃんと責任を持たないといけないし、感情を害してくる人やことには自分の言葉と気持ちで表現してしっかり抗議しなきゃなと思った。促されてそう思う、何てことはもうナシにしたい。何も思ってないのに、人の都合で自分の感情を偽るなんて、二度としたくないし、そう誘導したくないし、誘導してる奴がムカつく。だから人を見るときは、きちんとその人自身に向き合って、その人自身を見ようと思ってる。人の感情を自分に着せてる人には、共感はするけど嫌いだ。でも思い込みで見てもいけない。とても難しい。
お父さんは元気?
ありがと、病気がちだけど何とかね