2020-06-19

sub-cult-ure

人気の映像コンテンツ投稿者の魅力によって支持されている。ひたすら楽しいばかりのコンテンツが無数にあって、支持者たちは信仰の代価に多大な時間を費やす。ある個人組織感性に基づいた表現作品に対して、何かがあると思って夢中になる、感情を動かされる。彼らはどこへ連れて行ってくれるのか、期待が膨らむ。夢中であるのを肯定できることは幸いである。感化されて、ある者は自らの感性で新たな表現者として高みにのぼることもあろう。

とき単独提示された謎掛けのような作品がある。どうとでも解釈してください、という割には、遡ると、取材に乏しい、目新しさはあるが才能溢れる独創性もない、そうして下火になったコンテンツがある。これに対する考察の深まりが、どこまで私の生活感性資するだろう。社会集団なす者としての人間は、共通認識を土台とした相互意思疎通を行うが、表現の造形や背景にこだわることを放棄した作品は、コミュニケーションの具にするには身がなさすぎる。そうなると熱心な蒐集家によって辞書的に記憶されるようにはなっても、見出しとして以上の価値は無くなってゆく。(あるいは様式慣用句として生き残る。)

翻って流行を超えた価値の見出されたもの古典としての地位を獲得してゆく。この社会うねりは、世代を超えた古典価値というレーティングを施すアルゴリズムであるといえる。

それでは、視聴数や独自アルゴリズムによってソートピックアップされた映像作品の視聴サービスは、どうだろう。上位に表示された映像作品は、いかなる意味において価値があるのか。それは語るに値して、われわれを夢中にし、どこかへ連れて行ってくれるのだろうか?

  • 頭空っぽにして流しておける映像くらいが心地良いのです、最近は。 本気になって見ていないといけない映像は疲れてしまうからね。

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