2017-12-27

葬式お笑いネタにするのが嫌いだ

年末も近づいたこの季節、TVではM-1を始めとしたお笑い番組が大量に流される。

漫才コント、色んな形態芸人たちのネタ披露されるわけだが、

自分葬式ネタにした漫才コントが大嫌いだ。


母親を亡くしたのは四年前で、自分でもずいぶん長いこと引きずっているとは思う。

また、自分科学の徒であることを自認しているので、死後の世界だの霊魂だのが現実にあるとは思っていない。

ただ、自分を育ててくれた母親が、死とともに完全に消滅したと思うのも辛い。

生前まり親孝行できたとも思っていない。ようやく孫の顔を見せてやることができ、

これからやっと親孝行ができるかと思った矢先に、母は病で亡くなった。

からその母のためになることを何かしたい、母を喜ばせたいと強く思った。

もう死んでるのに。

肉体は完全に死んで、脳も活動を止めてしまい、客観的には母の人格は完全に失われてしまったというのに。


葬式というのは本当に優れたシステムで、一定ルールに従った服を着て、決められた儀式を開催し、

決められた受け答えをこなしていけば、死者のために尽くしたことにしてくれる。

それなりに信心深かった母のことだ、母が祖父母にそうしていたように、自分が母に対して正しく儀式を執り行えば、

母はきっと喜んでくれるだろう。

そう信じて、その場にしゃがみ込みたい気持ちを抑えながら、とにかく正しく、つつがなく儀式を終えるように努力した。

列席者もおそらく同じ思いで、ひたすら正しく、何事も起きないように儀式を進めてくれた。

その無言の一体感が、少なからず悲しみを和らげてくれた。


ところが、お笑いネタとして葬式を消費する場合、そうはいかない。

奴ら芸人は、ひたすら「正しくない」葬式舞台で演じ、それを観客が嘲笑う。

例えば無神経な葬儀会社人間を演じ、遺族の神経を逆撫でするような発言を連発する。

自分が母を送った時に、もしそうやって葬式台無しにされたら、と思うと恐怖しか感じない。

亡くなった母のために何かしてやれる唯一の機会を、一人(あるいは二人)の馬鹿のために奪われてしまうのだ。

さら恐ろしいことに、その状況はどうやら、他人から見たら面白いらしい。

死者を悼む無言の一体感など全くなく、喪主が何とか儀式を正常に戻そうと無駄にあがく様は、

どうにも笑えて仕方がないらしい。


恐怖だ。

そう遠くない将来、父も送ることになるだろう。

自分はその時も、信心深い父のために、正しく、つつがなく儀式を進めようと努めるだろう。

そのときTVでうまくいかない葬式を見て嘲笑っていた人々は、どう思うだろうか。

どこかで「喪主セリフが飛んだら面白いのに」「焼香の時に誰かが祭壇をひっくり返したら面白いのに」

とか思ってるんじゃないだろうか。

もしそうなった時、場を収めようとする自分は、やっぱり笑えて仕方がないんだろうか。

その時が怖い。

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