私はとある事務所のとあるタレントのファンである。前々から顔は分かるのかなぁとは思っていたが、何も見せていないのに名前を呼んでくれたことがあった。死ぬほど嬉しかったことを今でもよく覚えている。
基本的に『認知』という言葉が嫌いだ。認知なの!?と聞かれるとうーん、まぁそうみたい、、?と返すことしか出来ないし、むしろそうみたいと言うことも躊躇われる。
というのも、『認知』はひっそりしていなくてはみたいなものがこの界隈にはある気がする。別界隈だと普通にTwitterのbio欄に「認知頂いてます💓」とか書いていたりするので驚く。
ファンになりたての頃から顔認知になった頃までは、完全認知への憧れが凄まじかった。元々ファンが少ないタレントだったから、周りのファンはもうみんな顔なじみだった、タレント本人含め。そこにぽっと出の新規として突然入ったわけだから、私も早く覚えてもらいたい願うのは当然のことだったように思う。
日を増すごとに、氏(名は伏せるためこう記述する)との距離は縮まった。ステージから客席を見つめる視線の動きが、私で止まるのが嬉しかった。アピールなんて必要なかったし、見つめているだけで十分だなんて、何て楽なんだろう。それは今でも思う。
しかし、『認知』されることで大切な何かを失ってしまったな、と最近爆発的に感じている。
氏は元々ファンサらしいファンサはあまりしない。代わりに無反応なことも絶対にない。客席の隅々まで見るタイプだから、後列にいても埋もれても気付かれないことはまずない。
ファンになりたての頃は、手を振ってくれたり、微笑んでうんうん、と頷いてくれたりした。
最近は、もっぱら会釈や"よっ!"みたいな扱いになった。私は別に挨拶をして欲しい訳ではない。友人から聞くファンサの話が羨ましくてたまらなくなる。
指さしてもらったの!見つめ合って歌ってくれたの!一緒にハート作ったの!投げチューしてくれたの!どれもされたい。私もそれ、されたい。一緒にハートとか作りたい、bio欄に私と君でスペシャルハート♡とか書きたい、しんどい。
『認知』になることは、私たちからタレントとファンらしい付き合いを奪い去ってしまった気がする。
私には氏と同事務所に1人推しているタレントがいる。先日初めて推しの現場に行ってみた。楽しかった。とても。タレントがTHE☆ファンサ!みたいなファンサをくれた時は感動した。
同時に、同じことを氏と出来たらどんなに素敵なことだろうと、思わずにいられなかった。どうしても、願わずにいられなかった。
所詮私は氏と知り合いになりたいわけではないというか、身内じゃないんだからもっとファンとして扱ってほしいのだ。
手を振ってほしい。
指を指してほしい。
投げチューをして欲しい。
一緒にハートを作って欲しい。
氏とやってみたいことはたくさんある。
元々そういうタイプではないのだから、望むだけ無駄なのかもしれない。そういう対応をされたいなら別の人に降りたらいい。自分でもそう思う。
でも私は氏が好きだ。容姿全てが好きだ。記憶力が良くてよく気が付くところが好きだ。皮肉屋ですぐ否定する天邪鬼なところが好きだ。氏との距離はこれ以上縮めたくない。でも私は氏が好きだ。だから、これからも会いに行く。矛盾だらけだ。
思い出が増えれば辛くなると分かっていても、求めている対応を受けることが出来なくても、氏が好きだ。頭と心は別だと言うが、それを今、私は身をもって感じている。
感情のコントロールは難しい。好きであることと楽しいと感じられること、どちらを大切にしたら充実感を得られるのだろう。そもそもタレントを追いかけることに充実感なんて求めること自体が間違いなのだろうか。
考えても考えても、答えは出ない。
.