Facebookで良く流れてる「いい話」的なブログエントリ(「たった5歳の幼児がフライト中の急病人してあげた、驚きの緊急処置」とか「NYスラム街に1ヶ月滞在してわかった、たった1つの大切なこと」とかそういうやつだ)を読むたびに
なんだかもやもやするような、嫌悪感を感じてしまうような気分でおりました。
でも、こんないい事を言っているんだから素直に受け入れられない自分がおかしいんじゃないか、とか、
こういう記事は偽善っぽいから嫌悪感を感じるんだ、・・・でも、そもそも偽善って何だ?とか
が、今思えばわたしどものこの読後感の色は、
幼少に見た「おしん(1983,橋田壽賀子)」と同じ色をしているような気がしているのです。
わたしどもは母が見ていた「おしん」を一緒に見させられるのが嫌で嫌で仕方ありませんでした。
ご存知の通り、おしんは作中それはそれは可哀想で、
ちょっと美味いしいご飯を食べたかと思うと親に売られ、ちょっと仕事が軌道に乗ったかと思うと雇い主にダマされ・・・と終始、阿鼻叫喚の地獄絵図です。
おしんは持ち前の負けん気と頑張りで難局を乗り越えて行くわけですが、難局を乗り越えた小さなおしんの笑顔が画面一杯に迫ってくるたび、
「どうだいい話だろう、泣いてもいいんだぞう」という橋田の顔が背後に透けて見え、彼女の顔がわたしどもを急速にものがたりから引き離してしまうのです。
通常わたしどもは(それがわたしどもの利害に直結しない限りは)直に○○しろ、○○のように考えろ、と言われるのを好みません。
それが赤の他人からされたもので、しかも価値観に関するものであれば尚更です。
件の「おしん」は、まるで橋田に両肩を掴まれて「これはいい話だ、感動しろ」とガクガク揺さぶられるような感覚が、わたしどもを嫌悪感に陥れるのです。
自意識の高いわたしどもは、納得するのは好きだけど、説得されるのは嫌いなのかもしれません。
冒頭に挙げた「いい話」エントリも、
クリックバイト的な記法(「余命3ヶ月の○○が取った、驚きの行動が話題に」とか「わずか1ヶ月で○○の貧困を救った、信じられない3つの工夫」とかそういうやつだ)を駆使することで、
また同情を誘引しやすいパーツ(n歳の幼児、とか余命いくばくもない、とか)が組み合わされてものがたりが語られることによって、
技法を駆使して「いい話でしょう?ね!ね!」と語りかけてくる書き手の表情が透けて見え、わたしどもは途端にものがかりから引き離されてしまうのでした。
(題名にクリックバイト風の手法を使っているな、と気づくこと自体が、またわたしどもを冷めさせるのかもしれません)
いずれにせよわたしどもの混乱した頭もまとまり、大分すっきりした心持ちになりました。このエントリを書いているわたしどもの大腸癌も着々と進行し、明日大規模な切除手術を受ける予定です。医者は大丈夫と言ってくれていますが、おそらく助かる見込みは無いでしょう。
もし手術が失敗し私がこの世から去ったとき、このエントリの投稿ボタンは、残された息子が押してくれることになっています。
私がいなくなっても、このエントリがどうかあなたの心に残りますよう。
(あ、わたし大腸癌じゃないです)
グワシ!! n || _ /) ||/||/ (二 U\ ∧_∧ /ヽ__(/ ( ゚A゚/ / ( / (/>_> グワシ!! n || _ /) ||/||/ (...