だから経済的強者が経済的弱者を経済的に搾取してる現状はその意味で当たり前なんだ。
もちろんそれが善か悪か是正すべきかどうか議論の余地はあるよ。でも善悪の議論で弱者が強者の意志を変える方法はない。弱者の意見が通ったように見えたとしても、それは強者側が譲歩したのであって弱者が己の意見を通した訳じゃない。トートロジーではあるけれど、相手の意志にかかわらず意見を通すだけの強さがあればその人は強者だもの。
日本の法分野においては、基本的にどの個人も平等だとされている。だから、法的強者、法的弱者というのはいないという設定だ。だから喧嘩できるんだよ。個人が会社を訴えて時に勝利を収めることが出来るのは、法分野が経済分野に比べて、比較的公平だからだ。
でも現代社会において経済分野の方が法分野よりも大きな力を持っている。だから経済的強者は、立法に働きかけて己に都合の良いルールを作ろうとする。時間が経てば目立たない形で、経済的強者は法的にも強者になっていく。これは先進国に多く見られる特徴で、日本でも例外ではない。
今後ますます経済的強者はほとんどの分野で強者になっていくだろう。
じゃあ、経済的弱者が、経済的強者に対して互角あるいは有利に意志を通せる土俵はどこかというと、それは暴力なんだ。経済的強者だの弱者だの言っても、裸ん坊で殴り合いをすれば、たいして差がない。人間だもの、肉体性能は五十歩百歩だ。経済的強者は数が少ないから百人で囲んで棒で叩けば殺せるよ。
いま世界中で起きてるテロや暴動は、要するに上の図式の上で起きてる。イスラムのそれもそうだし、EUのそれもそう。宗教的価値観とかはデコレートだよ。そのほうが都合の悪い部分を見せないから「あいつら狂信者の群れだからこわいねー」で済ませてるだけ。
民意とか、民主主義って言うのも、上の理解を元にしないとずれた認識になる。選挙により大衆多数の意志をくみ上げてというシステムは、最終的に「もし大多数の意見を無視して物事を進めたら、大多数が怒って、お前らを棒で殴る」っていうのを下敷きに設計されてるんだ。いまの日本は暴力を否定(忌避とすら言える)した社会だけど、民主主義が暴力革命から生まれたってのは忘れるべきじゃない。
この記事は別段暴力を推奨する意図はない。けれど、その覚悟や理解無しで生きていくと、弱者は弱者のまま搾取されて死ぬ世界なんだ。というか世界は最初からそういう場所だったんだけど、ここ数十年の日本は幸運なことにそのあたりぼんやりしててもOKだったと言うだけの話じゃないか。