片田舎で育った私は、インターネットで「東京はゲイが住みやすい街」という情報を見ながら、東京に対するあこがれを募らせていた。
大学入学とともに上京したとき、めくるめく東京生活が待っていると信じて疑わなかった。
ところが、ゲイ社会はルッキズムが異様に幅を利かせている世界だった。
それは実社会でも同様だが、一方でそれを否定する土壌も整っている。とはいえ悲しきかな、未だにルッキズムを批判するのはたいてい女性、もしくは女性の意見に同調する男性だけだ。
男性だけのゲイ社会は、まさしくホモソーシャル的であり、叫ぶのは表面上の差別撤廃だけで、自浄作用は一切ない。ゲイを差別するヘテロを批判することは許されるが、ブスを笑うイケメンは未だに許されている。
そしてルックスも、それを補う話術も欠けている私が東京の飲み会に行ったところで、友達ができるはずもなかったのだ。
文字だけのコミュニケーションでゲイと関わっているだけで、会ったこともないマイミクを一方的に”友達”と認識し、私もゲイ社会の一部なのだと自分を騙すことができた。
しかしTwitterの台頭により、mixiはどんどんと廃れていった。
マイミクだった人たちがどんどんとログインしなくなる中、私にとって唯一のゲイとの接点、つまり私にとっての”社会”であるmixiを捨て、新たなコミュニケーションツールに移るのはとても怖かった。
それでも私はTwitterを始めた。私は私をまだ諦めたくなかった。一人で社会に取り残されるほうがよっぽど怖かった。
とりとめのないツイートを続けているうちフォロワーも少し増え、なんとかTwitterに慣れた私は、相変わらず文字だけのコミュニケーションによりゲイとしてのアイデンティティを保っている。
時々飲み会に参加したところで、気の利いたことの一つも言えず、友達もできないままだ。
それでもTwitterがあればそれでよかった。会ったこともないフォロワーを一方的に”友達”と認識し、私も社会の一部なのだと錯覚できた。
たとえリプライがなくとも、いいねをもらうだけでコミュニケーションをとれた気になれた。
フォローもフォロワーも1000にも満たない小さなアカウントでも、私にとって唯一の居場所なのだ。
しかし、Twitterに依存しすぎたのか、落ち込んでしまうことが増えてきた。
昨日まで「いいね」をくれていた人からフォローを解除されていた、何度か絡みのある人からリムブロされていた、たぶんこの人からはミュートされている、最近あの人から「いいね」がない、エアリプが自分への悪口に聞こえる、嫌いなタイプのツイートをしているだけでその人のことを嫌いになってしまう。
こんな高校生みたいなことで落ち込むなんてあまりにくだらないとわかっていても、社会から拒絶されたような不安で泣きそうになってしまう。
フォロワーは私のとって”友達”なので、フォロー解除は友達に一方的に縁を切られたのと同義なのだ。
だからといってメンヘラツイートするわけにはいかない。さらにフォロー解除されるかもしれない。”社会的な”ツイートを心掛けないといけない。
たかがTwitterだが、私にとってはここが唯一の”社会”だ。タイムラインを見るのは義務であり、ツイートするのが唯一のコミュニケーションなのだ。
本当はもうTwitterなんてやめるべきだ。落ち込んでまですることじゃないとわかっている。
「いいね」をくれる人はいても、リプライをくれる人はほとんどいない。ときどきリプライをもらったところで、気の利いた答えを返す余裕もない。
それでも、やめたくてもやめられない。社会の一部でいたい。私はまだ一人になりたくない。
こんな三十代になりたくなかった。
女より女々しくて草