中学時代に結構落ちぶれて、勉強は全てダメだと思っていたし、得意科目なんてないと思っていた。
でもある日模試を受けて、国語で100点を連発した。なんでこんな簡単な文章でみんな60点とか取ってるんだ?って思った。
中学の国語は、教科書作ってるような人が教えていた。そういう人がどんなテストを作るかと言えば、読解力が必要なのは10点分程度。
残りの90点は100人一首の暗記だったり、大学の授業で教えるような知識の詰め込みだった。読解力は評価されない仕組みだったのだ。
読解力問題というのは、端的に言えば「粗探し」だ。論理的な間違いを指摘するだけの簡単な作業。
よくツイッターだと国語の読解問題が叩かれるが、彼らは馬鹿なんだと思う。論理と命題すら理解できない自分の頭の悪さを隠したいだけだ。
話を戻すが、自分の先生は意地悪で、成績の悪い生徒をたまに当てて晒し上げるのが趣味だった。
その日は「スピーチ」の練習で、先生が突然与えた議題を基に即興で文章を作るという物。「りんごとイチゴはどちらが素晴らしいか?」みたいなそんなん好みだろ、と一言で終わるのを
1分間語り続ける。生徒当てルーレットという、先生が目をつぶって座席表をから当てる、という手法で生徒が指名される。
当たり前だが、ベテランの先生なので、目をつぶって居ても狙った場所に当てる事が出来る。先生と目が合ったので自分に来るなと思ったら、案の定自分に当たった。
「うーん、思いつかないっす」で終わろうと思ったが、そういう雰囲気ではなかった。とりあえず適当に出まかせで喋ったら、それらしい文章になり、クラスから歓声があがった。
他の人も当てられたが、皆しどろもどろでうまく言えてなかった。
今考えると、自分は親が厳しかったので、嘘をつく能力が異常に発達していた。その上、作文を毎回授業開始10分前で泣きながら書いていたので、巧く言えた。
自分の持っている読解力と、出まかせで論理をつなげられる作文力は、模試国語の成績向上に大いに役立った。
ここまで読んでわかったと思うが僕は卑屈なくせに、プライドがものすごく高い。
そういう人間がどこに行くかというと、2chだ。兎に角相手の文章の齟齬を見つけ、作文して論破する。
正しさなんてないと知っていた。だから自分の思想を全部捨てて、適当に相手に反論しかみつくことを繰り返していた。
高校でも成績が悪かった。自分にはやりたい夢があったが、得意の論破力で自分の夢さえ否定していた。
先生に学力ややる気に関して何か言われても、それを上回る理由付けで先生を黙らせることが出来た。
友達と遊ばない理由、勉強しない理由、彼女を作らない理由、何かしない理由なんていくらでも思いついたし、それで自分を納得させることが出来たし、周りも納得していた。
正しさなんてないと知っていたのに、自分の「しない事」に関しては正しいと思い込んでいた。
やらない理由を探す努力は、何も実らない、とアニメでやっていた。
それは正しいと思う。経験則でそうだったからだ。実際言い訳ばかり作り、自分と他人を騙し続けた人生。本当にやりたいことはやれなかった。
中学の先生は他の学校がやらないような知識問題ばかり入れてきたのか?と言われれば、優秀故に結局正しさなんて主観でしかないと知っていたからだろう。
国語の問題の答え何てどうにでも言うことが出来る、そんな小手先の論理じゃなく、血と肉となる知識を頭に詰め込みなさいと。
それが経験となり、人生を豊かにさせる。論理なんてただのゴミなのだ。人生においては、10点分程度の価値しかない。
とまぁ、という事をうそぶいて、他人の行動に勝手に意味を与えて、自分の論理の中にねじ込む。
やってることは今までと変わらない訳だ。
でも、と思う。やる理由を探す為にこの国語力を使う分には、少なくとも空しくなることはないんじゃないか。
とりあえず、アニメ『俺を好きなのはお前だけかよ』、毎週水曜-木曜の深夜にやってるから見てみような。
× 国語が出来る 〇 レスバが出来る
なんでそんなこと言うの。
無駄なことはしない、を突き詰めると生きてること自体が無駄という結論に至るのかなあ 無駄も遊びもない人生なんて嫌だな
娯楽のない人生は無意味だ しかし、教養がなければ娯楽は広がらない 人生をかけて遠くに行きたいのか 近くで人生を終えてもいいのか それは個人の価値観による が、自分はできるだけ...