2015-03-15

いじめは「する側の問題」ではなくて「される側の問題」として捉えるべきだと思う

昨日、NHKいじめについて特集していた。おそらく例の川崎市事件を受けてだと思う。

このときニュースに限らないけど、いじめテレビで取り上げられるたびに、少し不思議な気持ちになる。それは「なんでマスコミは、いじめをそこまで大事だと捉えているのだろう」ということ。

自分は小中の9年間、いじめを受けていた。と言っても、そこまで深刻なものじゃない。

罵詈雑言を吐かれる、ランドセルのなかを捨てられて代わりに砂や犬の糞を詰められる、牛乳拭いた雑巾臭い)や一輪挿しの花瓶を机の上に置かれる、上履きのなかに折れたカッターナイフの刃が入っているとか、その程度。

殴られたり、刃物で斬りつけられたり、万引きしてこいって言われたりといった、例の事件被害者少年が受けていたような凄惨いじめ、身体的・金銭的な被害を受けるいじめほとんど受けていない。

以下、続く内容は、そんな自分いじめられた経験だけをベースにして考えている。

いじめって、そんなにオオゴト?

なんとなく「大事」って書くと紛らわしいので、以下「オオゴト」とカタカナ表記にする。

自分は、いじめをオオゴトと捉えている人の感覚が分からない。

なぜかと言うと、いじめなんてどこにでも転がっているものだと思うから

世の大半の人は「いじめ」を「オオゴト」だと考えていると思う。だからいじめが「オオゴト」にならないと誰も目を向けようとしない。生徒が自殺したり、家出したり、不登校になったり、罪や事件を犯してしまったりしないと、誰も目を向けない。

でも、その「オオゴト」に至るまでに、小さないじめ」が毎日積み重ねられていて、その積み重ねこそが問題なのは当然の話。

以下、その「いじめなんて、オオゴトじゃない」と感じる根拠について。

▼「していいことと、しちゃいけないことを教える」だけで、いじめはなくなったりしない

たとえば「していいことと、しちゃいけないことを教えるべき」という意見があると思う。テレビのなかでも、ツイッターでそう投稿している視聴者意見が流れていた。

でも、それはいじめをなくすことにはつながらないと思う。なぜなら「どんな行為であっても、それはいじめにつながり得る」から

これは実際の自分の例だけど、小学校3年生のあるとき、物凄く機嫌が悪い日があった。

その日、少し寝坊して親に叱られて、学校では自分に非がないことで先生に叱られて(後にそれが判明して先生謝罪してもらったけど)、などなど、嫌なことが立て続けに起こった。

そして給食時間、仲がどちらかと言えば悪い(でも、自分いじめてきたことはない)クラスメイトから「お前、ホント国語ダメだよな」的なことを言われた。その前の時間国語テスト返却があり、その点数が悪かった。

別にクラスメイトは、そこまで酷いことを言った感じではなかったのだと思う。単純にちょっとからかってやろう程度だったんじゃないかと。

でも、頗る機嫌の悪かった自分は、それをうまく受け流すことができずに、たぶん「だったらどうした」「お前よりマシだ」みたいなことを言い返してしまったんだと思う。正直よく覚えていない。

そのあと、殴り合いの喧嘩になった。そしてそれ以降、そのクラスメイトからいやがらせが何度かあった。

この経験を後から振り返って、自分は「どんなに些細な一言行為であっても、受け手側の心理状態によってはいじめ(の発端)になり得る」ということを知った。もちろん「お前の我慢強さが足りないだけだろ」と言われれば、それもあると思う。昔は確かに沸点が低かった。でも、どんなに沸点が高い人でも、同様のことは起こり得るとも思う。

これが「いじめなんて、オオゴトじゃない」と感じる理由

いじめは、どんな些細なことが原因となっても起こり得る。だからいじめ=オオゴト」だと考えて向き合っていると、いじめの本当の原因(日々積み重ねられる些細な言葉や行動によるダメージ)を見落とすことになると思う。

▼「いじめ撲滅」という言葉に対する違和感

いじめは「撲滅するもの」ではないと思う。

そもそも、いじめを撲滅することは不可能だと思う。先述したように、どんな言葉行為であっても、それは「いじめ」につながり得るから。それこそ褒め言葉でも、相手の心理状態によっては嫌味に聴こえたりするように。

あと、どうでもいいけど、いじめ「撲滅」って言うと、なんか「いま起こっているいじめを一掃する」ってニュアンスに聴こえる。つまりいじめが起こってから対応する」という事後対応イメージ対応としてあんまり正しい気がしない。

それなら「防止」が良いのだろうか? そうでもないと思う。防止することも同じ理由不可能だと思うから

個人的必要だと思うのは「耐性」をつけること。「免疫」と言っても良い。つまりいじめ」は、誰もが受ける可能性があるものと考えて(誰もが風邪をひくみたいに)、そのための耐性・免疫をつけておくことが重要だと思う。

いじめは「する側の問題」ではなくて「される側の問題」として捉えるべきだと思う

まとめ。

いじめは「する側の問題」ではなくて「される側の問題」として捉えることが重要だと思う。

なぜなら「どんな些細なことでも、いじめ(の萌芽)の原因となり得る」からいじめる側を教育したり矯正したりしてもあんまり意味がない。いくら綺麗な言葉や行動であっても、言われた側・やられた側の心理状態によって、それはいじめになり得るから

からいじめは「される側の問題」と考えて、誰もが「される側」になっても大丈夫なように、耐性・免疫をつけてもらうことが大事だと思う。

「される側に耐性がないのが悪い」ということを言いたいわけじゃない。もし「される側」になってしまったとき、堪えられるようになっておこうということ。

「じゃあ、それをどうやるんだ」と言われると、なんにもアイデアないから、言いっぱなしになって終わってしまうのだけど……。

  • される側にならないように自分でイジメまくっていじめる側になれば解決じゃね

  • 大体、「いじめ」の主語がデカいんだよなぁ 個人的にいじめ自体はどうでもいいと思ってるが 暴力や犯罪は撲滅や処罰をすべきだろ いじめっていう大きな主語で曖昧にしてるから 単純...

  • その通りだ。 ちゃんといじめた人間を半殺しにして二度といじめできないぐらいにぶちのめすべきだ。

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