はてなキーワード: 高身長とは
>男性の場合は背の低い奴ははなっからファッションの対象から除外されている。
これは女性でも同じ。ついでに言うと背の高すぎる女性はやはり着る服に苦労する。
いわゆるお洒落なブランドの服は9号のワンサイズしか作らない所も多いよ。
7号や5号サイズを展開しているブランドは本当に少数。
デパートの隅っこに専用コーナーが有ればいい方。
子供服から大人でも着られそうなデザインを選ぶ、なんて技を使う人も居るそうな。
>メンズの海外高級ブランドなんて高身長以外は人間扱いしてなさそう。
高級ブランドの場合、服が着る人間を選ぶ性質のものなので何も間違ってはいない。
この手の「俺らの方がより被害者!」と脊髄反射で書き込む人って良く見かけるけどさ、
反論する前にちょっとは調べたり想像を巡らせたりできないのか?
思わず笑ってしまいました。
私は兄の状況を何か特殊なことのように思っていたのですが,
引きこもっている人がたくさんいることを考えたら,
社会との関わり方は人それぞれと考えてもいいのかもしれないですね。
少し気持ちが軽くなりました。ありがとうございます。
私と兄のことについて真剣に考えてくださる方が何人もいて,救われた思いがします。
皆さんどうもありがとうございました。
当初は個人的なことですから具体的な状況については伏せておくつもりでしたが,
熱心に考えてくださる方もいらっしゃるので,その方のために,すこし兄と私の状況についてお伝えして,
長くなりすぎましたのでこのレスで最後にしようと思います。
非常にやりがいのある仕事で,同僚や上司にもとても恵まれていますし,信頼できる友人がいます。
一方兄は,15歳のころから入退院を繰り返しており,高校には1週間ほどしか通えませんでした。
調子のいいときには両親と外出することもあるのですが,友人と呼べる人はいません。
恋愛もしたことはありません。
薬の副作用に日々苦しんでいます。
私には心から尊敬している人がいるのですが,その人が,私を好きでいてくれることが最近わかりました。
ものすごくうれしくて,私はなんて恵まれているんだろうと思いました。
ただ同時に,私だけが,こんなに恵まれていていいのだろうか,と思ってしまったのです。
将来は,兄が,趣味のことでものんびりしながら暮らしていけたらなと思っています。
すいません,謝ります。
人を試すようなことをしてしまいました。
おそらく,
http://anond.hatelabo.jp/20090809150441
の記載にこだわってらっしゃるのだと思いますが,
私は,
(私の価値観によれば)私の方が恵まれていると「思います」。
といっていたのです。
高身長だのナンパだのを持ち出されたので驚きあきれてしまい,ついからかうようなことをしてしまいました。
大人気なかったと思っています。
申し訳ありませんでした。
自分は身長の高い女の人を見るとついふらふらと近寄りそうになってしまう。
たぶんマザコンなんじゃないかとは思うが、年を取っても変わらない。
(母が死んでしまったあとも)
http://anond.hatelabo.jp/20090716234152
もし元増田が海外で働けるようなら、行ってみると楽になるんじゃないかと思うなあ。
英語圏ならアメリカやカナダ、オーストラリア、ニュージーランドやイギリスみたいな多民族国家や、
どこの国にも背が高くない男性は一定数いるけれど、
日本よりは180cm以上の人が多い。
元増田はおそらく180cm前後かそれプラスなんじゃないかな?
私にも一人178cmの友達がいたけど、彼女はいつも彼氏がいたよ。
彼女は中国人で、大柄な人が多い北部においても女性で178cmは高い方と言っていたけど、
オーストラリアに移住してからは
道を歩いてると180cmを裕に超えるモデルみたいなイケてる男の子から口笛吹かれたりしてて、
みんな185cmとか超えてて、彼らも彼女がモデルみたいだから気になったと言ってた。
たしかに顔は可愛かった(可愛い系の香港人女優とちょっと似てた)けど、
あくまで女性らしい普通の女の子が高身長だったってぐらいなので、
手足の長さも身長の分長いってぐらいだったし、
180cm+はさすがに多くないけど、日本にいる時に比べたら目にる機会多いよ。
なにより180cm+の男性が多いから、
日本にいるより気にならないんじゃないかな。
もしかしたら178cmと180cm+じゃ違う!って思うかもしれないけど、
特に多民族国家みたいな所で育った人は
やはり同一民族が大多数を占める土地で育った人に比べて外見を気にしない人が多いし。
身長を含めてね。
追記:
これも言ってたのモデルみたいなカッコいい子だったけど、
夫のことで相談です。
週に2-3回、後輩たちを連れて飲みに行くのですが、車で行って、そのまま運転して帰ってくることがよくあります。飲酒運転です。また、飲みに行かない日は家で晩酌をするのですが、ビール1-2缶開けたあと、運転してスポーツクラブに行ったりするのです。
懇願しても、叱責しても、「軽く飲んだくらいだから大丈夫」といって聞きません。
どうしたらやめさせられますか。
なお、夫は医師で、高収入、高身長のイケメンで、少々性格は悪いですが、飲酒運転以外は条件的にも最高の人なので、離婚は考えていません。そんな男とは離婚しろ、という意見は却下します。
…
…
…
という相談を友人から受けた。このご時世で「それでも飲酒運転をやめない」という時点でそんな男からは離れた方が……と言いたいのだが、彼女は婚姻の継続に固執しており、それだけは絶対に譲れないという。
彼女も旦那さんもどっちもどっちだし、放っておいてもいいのだが、話を聞くとそのうちかなり高い確率で事故を起こして、無関係の誰かの命が奪われないとも限らない。
なんと言って説得すべきか? またはあなたの身近な人が飲酒運転常習者だったら(縁を切るという選択肢は置いておいて)、どうやってやめさせる?
相手と普通に会話する事は出来るのだけれど、そこから一歩先に距離を縮めるのが苦手だ。
メールアドレスを聞くとか、デートに誘うとか、敬語からタメ語に変えるとか、さりげなくボディタッチ?とか。まぁボディタッチはキャラ的にないと思うんだけど。
オフ会とかで相手と盛り上がったりしても連絡先を聞けずにそのまま別れて、なんとなく次回以降行かなくなって消滅、みたいな事もよくある。
後で友達とその話をしたりすると「なんで聞かなかったの!?」と怒られる。いや、そんなタイミングないんだけど。。と思うのだけれど…。
なんて悶々としていたら、連絡先を聞く聞かないで興味深いやりとりを2chで発見。
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/lovesaloon/1231568751というスレです。
479 名前:恋する名無しさん[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 06:50:27
どっちかでメアドを聞けたらいいな。
12も年上だけど、いつも仕事ですごいフォローしてくれる人に。
食事も一緒にいけたし普段仲良く喋ってるけどどう思われてるかつかめない
480 名前:恋する名無しさん[] 投稿日:2009/01/12(月) 08:45:19
>>479
上手く聞けるといいね
飲み会ってふとチャンスというか、いい間が出来るからその時にでも
みんな、ばたばたしてるから紛れて聞いたな
481 名前:恋する名無しさん[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 09:07:23
>>480
聞きたい相手もバタバタして会話どころじゃないのでは?と思ったのですが。
499 名前:恋する名無しさん[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 10:46:19
>>481
バタバタってなに?
飲み会にバタバタとかないよ。
メアドを聞けないからヘタレとか、そういうのじゃなくて無理矢理理由を見つけて連絡先を聞けない自分を慰めてるのが問題。
あなたがもしいい人だとしてもちょっと考え方変えないと絶対に恋人できないよ。
あまりにも消極的過ぎる。
一番モテない男性って不細工でもKYでめなくて、待ち受け男だと思う。
キツいこと言ってごめんね。本当に好きなら頑張って。
痛い痛いwwwwww
待ち受け男というのが言い得て妙。
502 名前:恋する名無しさん[] 投稿日:2009/01/12(月) 10:52:15
>>499
そうは言っても社内だと誘うのは困難だし
さらに一度断られた相手だと誘う事すらままならない
行き過ぎるとセクハラまがいになってしまう
男が思う社内恋愛は難しいんだよ
女子は激しく同意している。
504 名前:恋する名無しさん[] 投稿日:2009/01/12(月) 10:59:16
>>499
>一番モテない男性って不細工でもKYでめなくて、待ち受け男だと思う。
よく言った!
ほんとにそうだよね。
そして等の本人は真摯に受け止めた上で、現実的な問いを投げている。
509 名前:481[] 投稿日:2009/01/12(月) 11:07:20
>>499ありがとう。
481です。全く反論の余地がないです。あなたが言われる通りだと思います。
頭でっかちなんですよね、『もし相手を不快にさせたら』とか、『拒否られたらカッコ悪い』とか。
それを受け入れられる器量がないんでしょうね。
こんなことばかり言うとまた批判されそうだけど。
かといって、『よし!499に言われたから待ち受け男はヤメだ!』っていきなり人が変わってしまうのもどうかなと思ってしまう。
こっちのアドレスはすでに教えていて、改めてむこうのアドレスを尋ねたりしたらドン引きだよね?
メチャクチャな文章になってすまん。
この悩みも凄く分かる!
知り合いには「そんなの多少不自然でもいいから聞いちゃいなさいよ」と大抵言われる。
いや、違うな…。より正確には、
「連絡先を聞くことが自分の意思によらず、かつ教えるのが必然的な状況」
を構築しないと聞けないんだと思う。その意味では自分は481とまったく同じだ。
色々言い訳したところで、結局は自分の格好悪さだったり、相手に否定される可能性を受け入れる覚悟がないから躊躇してしまうのだと思う。
でも、そういう格好悪さが相手にとって嬉しいんだろうな、と思うケースはある。カッコ良いカッコ悪さ?というか。自分も何度かそういう事があったから。
2chだとレスが少ない(まぁ結構リアルタイムなんだけど)ので、色んな意見を増田で聞いてみたい。
個人的にはどんなやり取りで連絡先を聞いているのか、具体例が聞けると嬉しいです。
学生時代の友人A子から、結婚してまだ1年ちょっとの夫からDV&モラハラを受けている、と相談された。
A子も私も30代、既婚、子供なし。
A子のダンナさんは外科系医師で、高学歴、高収入、高身長、顔も普通よりちょっとカッコイイ、と条件だけ見れば結構な人物だ。私は結婚式で1回会っただけだが、そのときのひどく冷たい目が気になってはいた。
DVが始まったきっかけは、金銭にまつわるトラブルだったようだ。夫は月収およそ100万のうち10万を自分のお小遣いとして確保し、残りを共通の口座に入れていた。A子は結婚を機に職場をやめて、今はパートタイムで働いているが、その収入は全て自分のお小遣い。さらに生活費として、家賃や光熱費など自動引き落とし以外に月20万使うという。
金銭に関しては家庭ごとに感覚が違うだろうから私がどうこういうことではないのだが、ある日A子の夫がキレた。「オレが働いて稼いだお金は全部オレのものだ」と言い出したらしい。A子が反論すると、「お前は稼いでいない、役立たずだ」と罵り、その日から暴力が始まった。金銭関係のことだけではなく、「魚が食べたい気分だったのに夕飯が肉料理だった」「共通の友人との飲み会でつまらなそうな顔をした(言いがかり)」などいろいろ些細なきっかけで「キレる」ようになったという。
DV男の定番で、暴力のあとは優しくなる。そしてDV被害者であるA子も、「私が悪いんだ、こんなに優しい人を怒らせてしまうなんて」という典型的な思考回路に陥っている。
エスカレートしていく暴力の具体的な話を聞いて、友人としては「全力で逃げろ」とアドバイスするしかないと思った。被害者側の「努力」でDVがおさまることはない。
そして「逃げる」ためには経済的に自立することが必要だと思った。しかしA子にはそのつもりが全くない。彼女は資格を持っていて、その気になれば割りと簡単に就職先を見つけることができる職種。でも、「もう疲れちゃうからフルタイムで働きたくないし、頑張っても夫の収入ほど稼げないのがわかってるし」というのだ。
「あなたはずっと働いててえらいねー。私にはできなーい」と言われたときは、まじめに相談に乗ったことを一瞬後悔した。なんなの?結局「うちのダンナは高収入でーす。私はDVに耐えて頑張ってます☆」っていいたかっただけなの?
それでも、殴られたり首を絞められたりするたびに泣きながら電話をかけてくるA子の、切羽詰った状況は冗談ではないようなのだ。
問題:http://www.nicovideo.jp/watch/sm5712580
1/5追記:答え合わせしたら案の定ひどい点だった。
解答:http://www.nicovideo.jp/watch/sm5752506
(以下正解を記載しているので挑戦しようと思う人は見ない方がいいです)
4/10。
4点。
ひどい点だ。
5/10。
10点。
6/10。
12点。
3/10。まあ全滅じゃないだけよかった。
6点。
3/10。これは仕方ない。
6点。
3/5。
6点。
男女関係を「ペット」みたいな形で描いている少女マンガがドラマ化した時は、こんなん需要あるんかい、とびっくりしたものだ。もしかしたら最近は、そういう願望って結構あるんだろうか。女性の方は「乙男」とか「草食系男子」のような「友情」程度の関係を希望して、そのあとは「ペット化」をご希望ですか。そんなに男が怖いんだろうか。
「きみはペット」についてなんか誤解しているようなので書いておく。
「私って男が怖いから去勢された男を飼いたい☆恋愛関係なんて嫌!」みたいな話ではない。
多くの男と付き合ってきて恋愛における男女の騙し合いに疲れているが、だからといって男に素を見せる勇気なんて全くない高スペック女(高学歴・高収入・高身長・高戦闘力)の前に、初めて自分の素を見せられる男が現れる(…ただしペット扱いだけど)という話だ。
ちなみに原作では最終的にペット扱いだった男と恋愛関係になり、結婚して終わる。素を見せられる人との恋愛っていいよね!なお話。
気が楽になるか分からないし、もう知っているかもしれないけれど、
肺気胸は、男で、やせ形で、とりわけ高身長の人がなりやすいらしい。
なりやすいというか、よくわからんけどなっちゃうらしい。これは仕方ない。
・・・みたいなことを、お医者さんが言っていた。
いや、自分自身はなったことはないんだけど、
身近な友達で、上記3項目にバッチリな野郎が、2人ほど肺気胸で
入院した経験があるので、気休めがてら書いてみた。
弟さんも、あなたも、お大事に。
早く退院して、完治するといいな。
あれは確か去年の1月1日だ。
世間的にこの年頃の姉弟にしては異常な仲の良さと囁かれていた。
というのは後々母親から聞いたことだ。
俺はオタクで尚且つ女性恐怖症のフシがあったが、姉はそんな中でも特に 特 別 だった。
エロゲなんかもガンガンやるようなオタクだったからというのも一因だろうが、
そんなことはあまり気にしていなかった。
元より俺にとって姉は幼い頃から姉であり、時にそれ以上の“家族”でもあったからだ。
「ねぇ、×××しない?」なんてことを言い出した。
前日から俺は友人数人とK-1を見に行き、
ようやく帰宅し、ヘトヘトだった為ぶっきらぼうに
「はぁ?何言ってんだよ?」と返答するが、
「ダメ?」とちょい狙い気味の上目遣い攻撃だ。
小悪魔とまではいかないが、姉とは1つしか違わない。
二人で歩くと傍から見れば完全に“兄妹”だ。
それを心得ているのか高校生あたりから
俺はあの上目遣いにすっかり弱くなっていた。
結局のところ俺はロリコンなのか?
とその時はショックを受けたものである。
「わーったよ!」と半ばヤケ気味に呟くと俺は準備を始める。
急いでシャワーを浴び、さっそく例のモノを出す。
最近すっかりご無沙汰だったので、随分×××が溜まっているようだ。
「すごいね。固くて、すごくおっきいよ・・・」と大声で喋る姉。
多少のうるさくしても構わないだろうし、
いざその巨体を目の前に曝け出すと俺も意外と乗り気になってきた。
一通り姉がし終わると、今度は俺の番だ。
「円を描くようにすると良いらしいよ」姉の言うとおり俺は従った。
相変わらずどうでもいいことには研究熱心で困る。
最初はやさしく・・・と思ったのだが、
「もう少し強めでもいいよ」と言われ俺はまだ序盤だというのに
一通り準備が終わると姉はもう湿らせているようだった。
まさしくここからが 本 番 だ。
「結構疲れるな」と俺は内心思っていたが、
姉に「だらしない男」と思われるのが嫌で我慢していた。
そんな矢先「もっとっ、ペース、あげてもっ、いいよ。」とのお言葉。
「お前は振る側じゃないからな・・・」と半ば言いかけたが
もう俺にそんな余裕はない。
腰が痛くて死にそうだ。
とそんな間抜けなことを考えながら俺はあっさりと限界を迎えた。
バタリと倒れこんだ直後、姉がそれを手にとり口に運ぶ。
「うん、おいしい。」と口の中いっぱいにしながらも
糸みたいに伸びた白いそれを
俺の口にも運ぼうと近寄る姉のそんな仕草はやはり可愛かった。
「あ??ん」という甘い囁きと共に俺の口にもモノが入る。
ちょっとゼイハァしているところに、
このドロドロ感は喉にひっかかる。
それはそうだろう。
少し前までは全国の年寄りが喉に詰まらせて死んだ・・・
という話もあったくらいだ。
きっとつきたてともなるとまた一段と弾力があるのだろう。
まったく、正月早々餅つきだなんて、
いや、本来は正しいのか?と
そんなことを考えていたら姉が
「ごめんね。疲れてるのに・・・」と少しだけ
悲しげな顔で謝りだした。
「え?・・・ああ、いや別に。」と突然だったので
そんな曖昧な返事しか出来なかったが、
何言ってんだよ。姉ちゃん。そんな顔すんなよ。
だって姉ちゃんは、俺が本当に大好きな姉ちゃんなんだからな。
・・・と今年嫁にいってしまった姉ちゃんとの
思い出話なんか書いちまったよ。
釣りにしようと思ったんだけどうまく書けたか?
下手糞だったらゴメン。
あなたに漠然とした質問をひとつします。
深く考えずにとりあえず答えてみてください。
「答えはどこにあると思いますか?」
本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。
でも、答えてください。
反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。
何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。
答えましたか?
これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。
「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。
このテストは、速水健朗「自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し病患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。
「自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。
でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。
娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。
「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。
しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。
では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。
そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。
現在の子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。
「自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探しを社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。
我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。
私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質は恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。
私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組は時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。
「ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。
「高身長・高学歴・高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。
私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せな社会人になれると刷り込まれ続けてきました。
というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事=自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。
自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。
常に本当の自分とやらを見つめ続け、
「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。
問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探し病キーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。
罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。
その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。
(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育」
をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、
「個性重視教育」
になってしまったのです。
ファンタジーが現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。
だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉のキャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。
相当に丁寧な言葉のキャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。
このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。
50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、
「へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。
問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。
だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。
「自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。
たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。
しかし、まさに「ブーム」でした。
「ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。
自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。
しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。
自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。
そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html
Baldanders.info
「『自分探しが止まらない』を眺める」
http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml
どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。
自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。
妻のおかげです。
私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。
私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。
あくまで事実を書いただけですw
より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。
キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙な空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。
要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。
就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。
一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。
なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社に就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。
要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教が憂鬱で仕方なかったとのこと。
相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。
まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。
実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。
私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
「俺には輝かしい学歴があるからね。」
「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。
だけど、俺は違うよ。就きたい職業のイメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」
「仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」
「本当に?」
「たぶん…。」
「私を幸せに出来るの?」
「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」
真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。
私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。
輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女に幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。
三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップ・ステップ・ジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。
走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。
更に言えば、ホップ・ステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史の教科書ではむしろ多数派です。
そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界で内定をもらいました。
しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。
跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。
その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。
三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードとタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。
内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。
そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。
「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。
だって、就職留年して別の会社に内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」
彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。
そして、私は無事に大学を卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。
助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。
たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。
足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。
だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。
でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。
「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。
ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。
でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。
閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験の競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。
でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。
私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。
学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。
大規模リストラのニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。
そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。
かといって官僚も、天下りありきの賃金構造でモチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。
そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。
確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。
でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。
だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」
「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」
「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」
「ある!…はず。」
「食べていけるの?」
「…いけると思う。」
「子どもの学費もあるんだよ。」
「いける…ん…じゃないかな…」
「厳しいんじゃない?」
「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」
それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。
そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。
というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通の人生以上の修羅の道です。
要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。
でも、なにか確かなものが欲しい!
そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。
私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。
私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。
そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。
「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」
妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。
一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。
今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。
「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。
一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw
もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。
自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。
そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。
結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。
不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。
私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。
そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。
かといって、「キミとボクの関係が世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。
そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。
「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」
という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。
後編へのリンクを忘れていました。
初増田なもので、すみません。
わが子を自分探し病から守る 後編
リリカルなのはのフェイトの絵がでかでか入った痛ボードをつかっている、
公務員で年収600万以上で趣味スノーボードの高身長イケメンをさがせばいいだけじゃないのか?
たとえイケメンでもお宅なやつはいるとおもうぞ。
公務員で年収600万以上で趣味スノーボードの高身長イケメンよりも
好きなフェイトは、リリカルなのはのフェイトです。っていう人と知り合いたい。
特に目的もないのに飛行機見たくて空港いって一人でぼんやりしてたときに近くにいた飛行機の写真をずっと撮ってたあの人がいい。
って女の子と知り合いたいです。
まぁ、なのはのフェイトは名前しか知らないけど。
なんか色んな人と、と言うほど多くないけど、人と接してみて、自分みたく道踏み外してマニアな趣味に走った、そういう自覚のある人と、
そうじゃない人では寛容さみたいなのが、どう頑張ってもそこに差がある。
そういう普通の人は寛容さを示してくれたりするけど、やっぱ"踏み外す"ことに対して恐怖感、嫌悪感を隠しきれない。
だから一緒にいるとこっちが萎縮してきてしまう。俺を隠してしまう。疲れるなぁ。
だからどうしてもオタク過去を持つ女の子が良いとか思ってしまう。
でも出会わないなぁ。いや居るんだけど、結局話す間柄にすらならないなぁ。
オタクにしてはパッと見、元気過ぎるんかなぁ俺。実際はウザイくらい暗い、っていうか固いんだけど。
おかげで付き合ったことはほとんどなく、童貞ですよw
どーしたもんかなぁ。
後輩たちと遊ぶべきか遊ばぬべきか。個人的にはちょいと後輩と遊ぶのは苦手。誰かと遊ぶという時点でけっこう拒絶しちゃうタイプなのに、ましてや後輩と遊ぶなんて心理的に辛いものがある。まず後輩と何を喋ればいいのだろうか。どんな話題を振ればいいのだろうか。目線はどこに合わせていればいいのだろうか。何をして遊ぶのだろうか。不安要素が盛りだくさんだ。できれば参加は自粛しておきたい。しかしせっかく後輩が遊ぼうと誘ってくれているのだから行くべきなのではないかとも思うし、なにしろもう会う機会もほとんどない。M(友人)が○○部OBの会みたいなのを作ろうといっているのだが、それが実現するかも分からないし、どちらかといえば計画倒れしそうだし、実際にそういうものができたとしても一つの同窓会として機能するかも分からない。後輩と接点を持てる部分がほぼない。今遊んでおかなければもう会うことすらもないかもしれない。いま後輩達と俺含む3年のつながりは切れ掛かっているのである。遊んでおくべきなのではないか。だがやはり不安は残る。××(遊ぶ予定の場所)で何をするかも分からないし、誰が来るのかも分からない。S(友人)は行くだろう。一人では行かないかもしれない。だが誰かもう一人参加するとなればほぼ行くことにするだろう。Mはどうだろう。どちらかといえば友人との戯れは好きそうだ。後輩達とのお遊びとなればどうだろう。行くだろうか。まあ行くだろう。同級生も後輩もあまり関係なく遊ぶだろう。上下のしがらみに関して言えばたいした束縛感を感じてはいないだろう。ゼロではないろうが。A(友人)はどうだろう。行くだろうか。微妙なところではある。基本的には行くだろう。彼もなかなか社交的な部類である。地元で培ったであろう社交性はおそらく後輩達との交流においても生きるだろう。おそらく参加だ。では俺は?正直、面倒ではある。後輩達とめちゃめちゃ仲がよかったわけではないし、話をするのもどちらかといわずとも苦手だ。遊びに関しても大勢より一人遊びのほうが得意な部類だ。それに××というのは巨大なゲーセンみたいなものではないのか?もちろん4,5人で遊べる施設や環境も整ってはいるだろう。だが主に筐体型の1、2人用ゲームがメインではないか?となれば必然的に1対1のコミュニケーションをとらざるを得なくなるだろう。そのとき俺は円滑なコミュニケーションを行えるだろうか?非常に不安である。まとめるとこうである。後輩達と交流できる機会は今回を逃せばもうないだろう。だが俺は後輩と遊ぶのが非常に不安であり気が進まない。さて、行くべきか、行かざるべきか?いまの俺自身の心持ちでは「まあ行ってもいいけど、ちょっとなあ」である。世間体を気にしているいつもの自分であればおそらくしぶしぶではあるが行くだろう。実際楽しめるかどうかでいえば、・・・まぁ楽しかったな、くらいの感想にとどまりそうではある。俺の中での一番の問題点は「後輩の背が高く、俺の身長が低いゆえにコンプレックスを覚えてしまい遊びに集中できなくなる点」なのである。これがキモだ。もし俺が高身長好青年の高ランクイケメンであったなら二つ返事で行くだろう。ようは俺の気持ちしだいなのである。