はてなキーワード: 保育所とは
http://eiji.txt-nifty.com/diary/2009/11/post-30d7.html
から引用
【引用開始】
昨日もパックインで、子育て支援の話が出た時に、所得制限は絶対駄目だ!
と仰ったんですよ。朝日の高給を貰っていた自分にしても子育ては大変に金が掛かったと。
「年収一千万でも決して子育ては楽じゃない。もしそんな所で所得制限をしたら
金持ちは嫌気が差してますます子供を作らなくなって、貧乏人の子だくさん社会になる」と仰った。
私もこれに全く同感です。まず、地方はともかく、都会で年収一千万で子供を
学校に通わせるというのは大変です。それは私立だろうと公立だろうと。
一人だろうが二人だろうが。もう毎日のように不意の出費が襲ってきます。
それで、この年収一千万層というのは実は結構多いんです。みんなが名前を知っているような
一部上場企業は横並びでそうだし、今や公務員もすぐそこに手が届く。
しかも公務員の場合は、公務員住宅等恵まれていますから、額面で一千万に達していなくとも、
実は民間でそれだけ貰っている層に比する可処分所得な集団も決して少なくないんですよね。
所がこの階層は、日本ではサイレント・マジョリティなんです。
世間のやっかみを買うから滅多に発言しない。
彼らが物言うときには、必ず「庶民」というマントを纏って、決して自分の稼ぎが一千万あることは言わない。
そのせいで、彼らは、税金を取りやすい階層として御上から目を付けられるわけです。
我が家も生活が苦しいですけれど、うちはもちろん川崎市の小児医療補助制度からは外れています。
子供が病気になって総合病院の窓口とか行くと、ドンキとユニクロしか知らないような
親子の見窄らしい身なりを見て、事務職さんの十人が十人、小児医療費助成の…‥、と話掛けて下さる。
元帥も仰っていたけれど、こんだけ税金を払って、将来うちの子の肩にはジジババが
3人4人とのしかかるのに、行政からは何のサービスも無いことを腹立たしく思います。
限られた予算であれば、もちろん自分より苦しい世帯や母子家庭にばらまくべきで
あることは言うまでも無いけれど、所得制限を二千万に引くのならともかく、
一千万に引くのはナンセンスでしょう。
そこは数が多いし、決して楽をしているわけではないから。
庶民とは言わないけれど、余裕がある一般的に思われている階層にもインセンティブは必要です。
【引用終わり】
「年収1,000万円層に子供手当てが必要」という結論は同意しますが、
そこへ至る過程は異なる。
当方の理由は、
むしろ『自分の子育てを社会が正当に評価して欲しい』という欲求があるので、
その評価の手段として手当てを支給したらいい」というものです。
年収1千万円の層も、そりゃ手当がないよりあった方がありがたがるとは思いますが、
年収1千万円の層が困っているのは、お金の問題じゃないでしょう。
小学校から「お受験」すればそれなりに掛かりますが、中学受験からであれば、
節約したいのなら、東京都内を避け、浦和や千葉に移住すれば、県立浦和や県立千葉で
「年収1,000万円の妻」が欲しているのは、お金(手当て)よりも保育所サービスであり、
つまり
「子供を育てるということは、社会的に意義があることをしているんですね、偉いですね」と
メッセージを送ること、そのことに意義があるのだと思う。
特に、専業主婦で子育てしていたりする層だと、頼れる実家が地方だったりして
変な話であるが、年収300万のヤンママ層だと、「深く考えないで子育てする」ので、
あまり育児ノイローゼにもならないし、そもそも実家が近接しているケースも多いので、
祖父母にある程度頼れたりする。
一方、年収1,000万円クラスの場合、一定程度の学歴があったりするので、
子育てを「深く考えてしまう」ので、育児ノイローゼになりがち。
「育児ノイローゼ組の1,000万円の妻」たちは、
「社会人時代はそれなりに会社で評価されたのに、子育ては誰も評価してくれない」と
ネガティブ思考に陥り、まだ子供が産める年齢にもかかわらず「もう2人目はイラナイ」と
なってしまう。
この精神的に参っている「1,000万円の妻たち」に対して
「正当な評価をしてあげましょう。この子供手当てはその象徴です」という形で
給付するのであれば、それなりに意義があるとは思う。
「国(=社会)は自分の行いを評価してくれている」と精神的に満足すれば
「じゃあ2人目も・・・」と思う人が現れると思う。
「年収300万円のヤンママ」に対しては、本当に経済的理由から子育て支援が必要ですが
だからといって、一律廃止したら、結局、単純増税になるだけで、そっちの方がどうかと思いますが?
また、非常勤を例に挙げるのは正しくないかと。もともと、常勤とくらべると、常勤は給与が高いが時間拘束が厳しい
非常勤は給与が低いが、時間拘束が厳しくない。というそれぞれの労働体系の考え方に違いがありますので
短時間だけ売りたいという層に対して、給与の上昇カーブが低いのは、配偶者控除があるからというより、
多くの時間を売れないから、そして、労働力の需要と供給の関係で、そういう人が多くいるから、ではないでしょうか?
で、多くいるそう言う人の達が配偶者控除を一つの目安にしているだけで、
配偶者控除が無くなったから給与が上がるかというと、微妙な気がします。
寧ろ、所得税増税と消費税増税(4年後に15%でしたっけ?)で手取りは減るんじゃないですか?
奥さんが働くことの是非はあると思いますが、保育所などの整備が終わっていない現状で、奥さんが働かなくてはいけない状況に陥るご家庭が増えた場合、単純に子供たちの事が心配です。
知ってるのになぜ見解が不明・説明してないということにするのかわからん。
>定率減税の話じゃないよこれ。
減税方式じゃないことの説明がないといって減税の話を始めたのはそちらだし、そもそも定率減税だと課税最低限以下に給付できない。あまり知識や情報を持ってないから説明がおかしいと思い込んでるだけに見える。
>まあ「渋滞を考慮する」ということを後からアピールし始めたから我が振り直してると言えないこともないかな。
選挙前でもインタビューやら議員のサイトやらで何度も説明されてる。
>保育所増設や児童手当て増額とか単なる場当たりでロードマップも何もないし規模的に少子化対策になるかっていうとまず無理でしょ
場当たりでない規模的に少子化対策になるものっていったい何なのかわからん。強制出産でもさせるの?基本的人権を尊重しつつ出生率を劇的に上げる政策なんてまずないでしょ。自民であれ民主であれこれができないから叩くというのはそもそも要求水準が高すぎ。
>郵政に関する見解の迷走。結局のところ麻生は郵政をどうするべきだと考えていたのかいまだに不明
分社せずに一体でやるべきだったという考えのはず。自分が知らない=麻生は見解を示してないというのはこじつけ。
>定額給付金の位置づけの迷走。また減税方式でない理由の説明が無い
所得の把握が大変だから作業の楽な一律給付にしただけ。国会でも説明されてる。自分が知ろうとしてないだけなのに説明がなかったことにするのはどうかと。
>高速道路1000円は面白いくらい失敗。これだけ壮大に実験して貰って人の振り見て我が振り直さない民主党もどうかと思うくらい壮大に失敗
民主党の公約はもともと渋滞具合を考慮して無料化を決めることになってるので我が振りなおさないってのはいったい何をさしてるのかわからない。これも民主のマニフェストもろくに読んでないから我が振りなおしてないと思い込んでるだけでは?
>少子化については実質無策で臨む。人口減は移民でカバー。もっともこれは麻生の方針というより自民の方針というべきか
自民政権下でも保育所増設や児童手手の増額派行われてるんだけど。少子化で国ができる支援なんてこれくらいしかないでしょ。後は民主のように額をもっと増やすくらい。
小さい頃に親や兄弟と遊んだ記憶がない。俺の中では家庭という存在すら人間が抽象的な家族という糸で繋がっているに過ぎない脆弱でまた抽象的な存在に過ぎなかった。そしていきなり保育所というすでに完成された社会性を持つ環境に放り出され、そこに君臨していたイリーガルな存在―未就学児にいつもボコボコにされていた記憶しかない。
ある日は保育所に行きたくないと泣き喚き、親や周囲に迷惑を掛けたが、結局自分の意思は伝わらないまま終わった。
元凶は保育所、イリーガルな存在である未就学児にあったのではない。家庭にあったのだ。しかしそれすら気付かぬまま時間だけが過ぎていった。
ポジティブな面を持ち合わせていない俺の性格は一層歪んだ。俺を暴行した奴には今でも死ねば良いのにと本気で思う。
しかしこの頃唯一学んだ事がある。人類には人間未満の奴が混じっているという事だ。
親が仕事の都合で引っ越す事になり、一度俺の周囲はリセットされた。田舎だったが、周囲は小さい人間ながらも優しく接してくれた。暫くするとその人達とも親しくなりやんちゃな良くいる悪餓鬼として育った。
何が他人の迷惑になり何が他人の迷惑にならないかを分別できたし、子供だからまだ可愛げのある悪戯に励んでいた。大人達はそれで赦し、同時に満足し、俺も他人に認められやっとのびのびと生活する場を見出す事ができた。
この頃の自分の写真を見ると今とは似ても似つかない充実した顔付きをしている。どこからどう見てもまともな人間だ。
義務教育が始まった。簡単なものだったが学校では当然疲労もある。家庭はそれ程落ち着いたものではなかった。というよりアイデンティティを認めてくれる様な場所ではなかったので、居場所が無く常に癒される事もなかった。毎日宿題は意図的にやらずに放置し、耐えた今日は忘れ明日が来るのを恐怖した。その為内申は悪かった。
友達はいなくなった。心身共に余裕の無い人間に友達という存在が維持できるはずがない。
6年間、いろいろな事があったが全て水の泡だ。何ら俺の人間形成に役立ったものはない。毎日が作業の繰り返し。逃げたくなる時も当然あったが子供に一時的な逃避以外の選択肢はなく、意思表示すら許されず、貴重な時間は金へ変換される事もなく消滅していった。
本来ならば楽しいはずの遠足や修学旅行にも全く参加しなかった。俺にとっては体力を消費して楽しむだけの余裕は無く苦痛以外の何物でもなかったし、これらが与えられた許容される逃避行動の内の最たるチャンスだったからだ。
小学校高学年の頃の自分の写真と就学前の写真を比べると、顔付きに大分差ができている事に気付く。表情筋は弛み、口呼吸になり、目はどこを見ているのか分からなくなり、眉は「自分は哀れな人間です」と外部に漏らしているかのようだった。馬鹿だ。
相変わらず家庭でのキャパシティは小さい一方、学校での負担が増える。
運動部への入部は強制だった。
己の所在が分からなくなる。いや、元々無かったのかもしれないが、それを自分の中で肯定するのが怖かった。
ただ一点評価できる所がある。偽善だ。
俺は肯定する事によって他者を自ずと否定する事になるのではないかと恐怖したのだ。
ただ何もしない、動く事もままならない、それだけがその肯定/否定という行為から逃れられる方法だった。
授業中、公の場で侮辱され泣いた。様々な理由が心の中で混沌とし、涙する事が耐え切れなくなったからだ。
なぜ俺だけがこんな目に。
みなは充実しているのに。
なぜ俺だけが差別される。
みなは楽しくしているのに。
なぜ俺だけがこんなにも貧相なのか。
みなは恵まれているのに。
なぜ俺だけが気付いてもらえない。
こんなにも哀れならどれだけつらいか分かるだろう。
しかし誰にもこの気持ちは言えず、不登校になった。
中学自体の偏差値は高かったため、同級生に会わないようにするためには高校は底偏差値を選ばざるを得なかった。
この頃から親からくすねた金でPCや参考書を買い漁り独学で数学とプログラミングをやり始めるようになる。罪悪感はあった。同時に今までこんな俺を放置し続けた親に対する怒りもあった。だからある程度技量が上がるまでこの癖は直らなかった。本当は親に対する怒りではないのに、今までの環境に対する怒りなのに、その対象は人間の集合体という実体を持たない存在なのに親に対する怒りに勝手に置換していた。親もその集合体の一員だったから?今思えば全て自分の甘えに過ぎないと思う。乗り越えてこそ自分のアドバンテージになるものだと思うのに。
余談だが当時の参考書は辞典等が大半だったため、今でも役に立っている。
プロコンで賞を取る。が、そんな事親に言えるはずも無い。所詮人から盗んだ金で得たものだ。自分の熱中できる環境を得られ、更に客観的に評価してもらえ、虚空なものながら満足した。
高校を留年したり強制退学させられたりと転々とするが、結局辞める。
ニートです。毎日が楽しいなあ。これが人並みの生活だと言えるものなのか。
さっさと死にたい。
すげーなー(笑
親は近所で時間も金も余裕があるステキ環境なんてどれだけあるんだ
大体、子供が生まれたあとが問題。身体が弱い子は本当に手がかかる。これは個体差が激しくて
とか同時期に子供生んだ女子社員からクレーム貰って泣いてた人もいる。
入社式とかミスして顧客に大至急謝らなきゃならない時に保育所から「熱が出たので迎えに来てください」って電話が鳴るんだよ。
面倒をみてくれそうな人片っ端から当たってもつかまらいない、結局は自分のキャリアを犠牲にして職場からも顰蹙を買う。
子供のいる女子社員とバリバリ仕事した事ある自分から言わせりゃ、プランが通ってさあやるか!って時に子供が癲癇で病院に付き添われたらこっちも泣きたい。
でも1番辛いのはバリバリやりたいのにやれない本人だろうし、社会が子供を生まない男仕様になっている以上、どうしようもないよ。
道の向こうから、中学生の女の子と、そのお母さんらしき人が歩いてくる。
さっき買ったらしいイワタニのカセットボンベと、青々とした長ネギがのぞく。
ああ、今夜は鍋か。
あの親子はどんな話をしながら家路につくのだろう。
「おかーさんまだその上着着てんの?私が保育所の時も着てながったっけ。」
「9年前がな。ほら、昔デパート行った時に買ったの。」
「えー、いいかげん新しいの買えば?古臭いよ。」
「いーでしょ、昔の人は物をながーぐ使ってだんだがら。」
「それにいっつもあんだと兄ちゃんの物ばっか買うがらお金ないんですー。」
「コート一枚ぐらい買えんでしょー?韓流のDVDは買うくせにさ。」
「うっさいないいじゃん人が何着てだって。それより今夜何鍋がいい?」
「キムチ鍋ー!あれ最後に袋ラーメン入れっとおいしんだよねー。」
「・・・・・・」
「・・・・」
さ、家に帰ってお湯を沸かそう。
私は創価学会の二世会員だ。
母が先に入信して、父親が後で入信したらしい。
でも、母が活動にそれなりにはまるきっかけがどうも幼少時の私の言動が原因らしいのだ。
保育所を卒業するまで、まったく口を効かない子供だったらしい。
小学校入学時には、養護学級にも通わされた。
(しゃべれるようになったので、2年生からは普通学級のみになったけど)
パチンコや酒で借金を重ねる父親のせいで、母は働きに出なければいけなかった。
昼間の活動に全く参加できないからだ。
だから、母親には何の役職もついていなかった。
でも、夜の活動(座談会)には参加するから、その時にはほとんど留守番をしていた。
勤行や唱題に明け暮れる母親の姿を見ては、寂しい思いをしてきた。
勤行や唱題をやっている間は、子供である私を見てくれないのだ。
ついでに言えば、創価学会と言うところは精神疾患者に対しても冷たい組織だ。
常に「がんばること」を強いられる。
私自身は、中学校まで(少年部・中等部)は比較的まじめに活動に参加していた。
が、高校で部活はじめて、日曜日も部活に出なければいけなくなったので、活動自体はだんだんしなくなっていった。
大学受験を機にわざと他地方の大学に進学して、実家から脱出した。
入学式の時に、「創価学会の人いませんか?」という呼びかけもあったけど、スルー。
活動が非常に盛んな地域からさほど盛んでない地域に行ったこともあり、学会員の訪問もなく、穏やかに過ごしていた。
少年部(小学生)の頃ですら、当時の会長である池田大作のことはうさんくさい存在だと思っていた。
御本尊様よりえらいような態度を取っているとか、「先生」としてあがめなければいけないとか、子供心に不審に思っていた。
これだけだったら、すぐに脱会すればいいじゃないかという意見が飛ぶだろうから、脱会できない理由を書いておかねばならない。
学会の活動方針に矛盾を感じているけど、強烈な刷り込みと母親への思いで「脱会」という行動に走れない。
強いジレンマに陥りながら、日々生きている。