はてなキーワード: キンドルとは
テレビで電子書籍について報道していたので、またいろいろグダグダと書いちゃうぞ~。
という軽いノリで。酒飲みながら。
今まで散々それに該当する商品は世に出ていたと思う。
分岐はあるけど文字であり小説でありエレクトロである点を考えると
小説をPDFにしてダウンロード販売していたサイトだってある。ボイルドエッグとか。滝本竜彦は元気かな。
でも、そういう一連の流れは無視されて、
キンドルやipadと連動する書籍のみが、『電子書籍』として認知され、
『黒船』として恐れられている。
その違いは一体何なのか。
いろいろ考えたけど、最終的にはやっぱり『形』かな、と。
考えてみれば、『本』は非常に優れた形状と質量を持っている。
どこへでも持ち運びできるし、いろんな体勢で文字を読むことが出来る。
寝転がりながら。椅子に座りながら。飯を食いながらでも読める。右手に箸。左手に本。
ハードカバーでは多少きついけど。
これまでの『電子』な『書籍』は、その点を考慮していなかった。
ゲーム機やパソコンなどといった端末で再生され、可搬性や可読性については議論さえされていなかった。
それがキンドルの登場で変わったのだ。端末自体が変わったのだ。
そしてipad。そして、さまざまなメーカがipadを真似し始めている。
これは凄いことになりますよ。出版社さんは覚悟したほうがいいですよ。
「ネット上の動画展開はまだまだ先のこと」と思っていたらYouTubeの登場で慌てふためいた
こういうパラダイムシフトは、マジで予期しなかった時期にいっきに来ますよ。
音楽業界は、もはや目も当てられない。もっとも~、これはこれで面白いけ・ど・ね!(ファッキュー!)
まぁでも、パラダイムシフト自体が悪いことではないですからね。
むしろ、新しい文学の可能性も否定できないわけですよ。
文学の可能性というか、文字の可能性ですね。
『文字の可能性』と聞いて思い出すのは、やっぱり2001年に起きたテキストサイトブームですかね。
あれは面白かったわけですよ!あれだって一種の電子書籍なわけですよ!(酔いが回ってきた)
文字ポイントを拡大して、オチが放たれる。文字の色を変える!
空白でページをスクロールさせて中身を稼ぐという手法は、有名人のブログで定着しましたけどね、
ありゃあひどいもんですよ。辻ちゃんがテレビ番組で『スペースをあけてページに
内容があるように見せかける』というのをやっていましたけどね、ありゃあひどい。
やっぱりある程度の文章の量は必要なわけですよ!
やっぱり精度の高い文章を読むと興奮するわけですよ!
でもま、電子書籍なら電子書籍ならではの、『演出』というのも欲しいわけですよ!
たとえば、音楽が流れるとか。挿絵が美麗なアニメーションで表示されるとか。
何か、村上龍が作った電子書籍は、著名な方の音楽が流れるらしいですよ?
でも、音楽やアニメーションも、出来れば文学的な演出がいいですな。
心に染みるようなやつをね、僕は望んでいるわけなんですよ。
『私小説』は、『エンターテインメント小説』とは違って、やっぱり心の中で反響するような文字列であって欲しいわけなんですよ。
だったら、その電子的な演出にも、私小説性、心の中で反響するような演出が宿っていて欲しいわけなんですよ。
エンターテインメントな映画と違って。
文学性というのはバズワードだと思うけど、でも、それでも、僕は『文学性』を求む!
『エンターテインメント』という言葉自体に『マジョリティを拒絶する』という意味が宿っているような気がしてつらい。
そろそろ終わろうか。グダグダと書き綴っちゃって、ごめんね。ごめんね。
酔っ払っていてごめんね。
キンドルが左手だけで本体を保持したままページめくりなどの操作ができるかどうかにかかってる。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2010/10/post-1679.php
はてなーって勝ち馬に乗って語るやつらが多いってことなんだけど
だれかが優越感ゲームが大好きだって言ってて、なるほどなとおもった
優越感を得るためには、すでに勝敗が決まった勝負事で、勝利者側に立って意見を言うことが一番手っ取り早いモンな。
一番そう思わせたのが、電子書籍の日本の取り組みのときの、はてな村での議論の沸き起こり方だった。
電子書籍について、日本はわりと先進的な取り組みだったと僕は思ってる。
電子辞書とかだって、電子書籍なわけだし、ケータイ文化で、いまじゃ電子書籍は600億円市場らしい。
今叫ばれている、いわゆる電子書籍についてだってソニーとかパナソニックが世界に先駆けて端末出してたり、いろいろ取り組みが特集されてたのは知っているだろうと思うんだけど
あのときはてなの人たちは僕の知る限り、基本スルーだったと思うんだよね。
本を買い切り制にしてほしいという提案をする人はいたが、それもあまり強い意見ではなくて、一部のマニアな人の意見だった。
はてなの意見が過激さをましてきたのは、あきらかにアメリカでのキンドル成功からだと思う。
ぼくはこのとき思ったよ。こいつらいったいどこから沸いてきたんだって。
みんなしたり顔で、キンドル成功の分析をジャーナリストやエコノミストがそうするように、後出しじゃんけんで偉そうに分析し始めて
初めからこうなるってわかってましたみたいな、佐藤藍子が大量にわいてて気持ちわるかった。
これからは電子書籍!教科書だって紙の時代は終わる!とかいって、鼻息荒く裁断機とスキャナーの特集始めちゃう人まで出てきて
ビッグウェーブに乗り遅れるな!って感じのひとが大量で、ほんとみっともないなって思った。
キンドルが安く発売されるというのにまとめられているページがない。なので、私が書く
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・洋書は43万冊DL出来るが、日本語の書籍はまだまだ難しい。欲しい本がすぐにDLできるわけではない
・重さ、見易さはipadと比べるとだいぶ快適。キンドルの場合、日差しが強い所でも読める、目の疲れも少ないらしい。
・wifiだけと3Gの違いはネットをどこでも使えるかどうか。つまり、本をDLして読むだけなら3Gは必要ないと思われる。ただし、
・wifiの認識は「決められたエリアならネット接続が可能」でおk。つまり、家に居ればネット繋いでDLできる・・はず(ここら辺曖昧なので、分かってる人加筆頼む)
・キンドル欲しいという人は予約が必要。その際、アカウントを新規に作らなければならない。
英語全然わかんねぇていう人はhttp://www.yoshodego.com/amazoncomkindle2dx.html を読みながらすれば出来る。
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iphone,ipadをスルーし続けていたので、「wifiや3Gとか何?」て感じだった。
なので、色々調べて自分が分からなかった所の回答集みたいなものになっている。
だから、ツイッターを使いたいとかグーグルで検索してウェブみれんの?快適性は?とかは知らん。私は使わん。
誰かwiki作ってくれ
後出しは経済学者やエコノミストの18番だが、はてなーのガラパゴス馬鹿も後出しが得意だ。
あいつらは必ずアメリカがうまいことやったあとにガラパゴス騒ぎを起こす。
いつも勝ち馬に後から乗っかり、自分はなんの苦労もせずに時代をうまく乗りこなしています的なポジションに居座っている。
例えば電子書籍
それまで電子書籍なんて興味もなかったのに、アメリカでキンドルがブームになると馬鹿どもが、得意げに語れるネタができたとスネオ根性丸出しで喜ぶ。
もちろん、ソニーやパナソニックの電子端末であれこれいじり倒した人はいるだろうし、その不満点をぶちまけていた人もいる。
しかし大半の連中は、先に述べたようなスネオである。
むしろそんなバカバカしい政治の外で、日本での電子書籍に純粋に興味を示していたのは、携帯しか使わない人達だったというのが面白い。
日本のアーリーアダプター気取って、やり方が悪いと叩くことしか能がないスネオとは大違いだ。
スネオは結局のところ、エコノミストや経済学者のように、アメリカがうまいことやったことだけを抽出して、起きたことに関しては偉そうにべらべら喋る
思えば梅田望夫からしてそうだ。
結局アメリカ人がフォロワーになってからでないと踊らないはてなーが、日本のIT界で一定の支持を得ているという事こそ、日本の不幸なんだろうな。
http://www.ted.com/talks/lang/jpn/derek_sivers_how_to_start_a_movement.html
昨日、京都の恵文社一乗寺店に行ってきた。ネットでは話題になり雑誌等にも多く取り上げられ下町の一乗寺という立地なのにうっそうと流行っている。昨日行った時も人ゴミで店内は覆われていた。なぜAmazonなどのネット書店が席巻する現代でリアル書店が今尚健在しているのか。そんな疑問が気になって京都まで足を運んだというわけなのだが、結論を先にいうと、おそらく店内に並べる本のチョイスが斬新な点にあると思う。決して、店内の雰囲気がいいとか、雑貨が置いてあるとか、本の並べ方がいいとか、そういったことではないと感じた。
振り返ってみよう。現代の本屋さんとはどんなのがあるか。大きく分けて二つあって、一つはランキング形式を重視した1から100まで網羅している大型チェーンの書店。それともう一つは、対照的に、とある商店街の一角にひっそりとある「なんで潰れないの」的な亭主一人の本屋さん。もしくは、駅前の売れ筋商品だけを置いた小書店。・・・以上二つに分かれるわけだが、そもそも個人的には紙媒体の文化というのは、後数十年でマイノリティになると考えているので、前者はアマゾンと置き換わり、後者は間違いなく潰れると思う。
その点を少し掘り下げてから、恵文社の魅力にシフトしたいので少し寄り道をして欲しい。
なぜ、リアル本屋さんが今の経営だと淘汰するかというと、単純にデジタルネイティブ。つまり物心ついた時から活字はデジタルで読むものと教育されてくる子供たちが今後増えるからで、現在のアナログ世代とごっそり入れ替わった時には本屋さんの存在はマイノリティになるだろうと。それはこんな根拠があるからで、まだ日本語版のキンドルやiPadなどの電子書籍母体は発売されていないが、他の先進国ではもう地に根付いているといっていい。なんでかというと、公的機関、つまりは教科書がデジタル化に大いに役立っているからなのだ。アメリカの教科書というのは日本と違って、独学ができるように膨大の情報が詰め込まれており、分厚い専門書籍と化している。そんな分厚いものを何冊ももって移動となると、それだけで疲れてしまう。それを補ってくれるのが電子化による、データを持ち歩く方法で、子供の頃からそれが当たり前となると、どうなるか。先ほども言った、活字はデジタル画面で読むものという常識が固定されるわけで、それは必然的に、アマゾンでデータを購入してデジタル画面で読むという行為になり、リアル本屋さんというのが、今で言う、レコード屋さん状態になるだろうと推測せざる得ない。
さて、余談が長くなったが本題に入ろう。
そんな絶望的な本屋さん市場なのだが、それでも希望の光はあって、その光を感じさせたのが今日の主役の恵文社というわけだ。簡単に説明すると、恵文社というのは大型書店の後ろの方に眠っている良書を一般客に触れさせている点にある。人は皆、食わず嫌い性質が備わっており、変化を嫌い、予測できない事、物はさける行動をとる。それは本屋さんでも適応され、好きなジャンル本コーナーしか行かない。例え興味本位で哲学とか医療とかの書棚にいったとしてもちんぷんかんぷんで足を止める時間というのは刹那だろう。その点、恵文社はそれをごちゃまぜにしている。東京では最近オープンした松丸本舗がそれにあたるだろうか。漫画や古書を隣に並べるなどして、お客に刺激を与え、ハードルを下げ、好奇心、自分探しの森へ引き込ませる。それが最大の要因であり、恵文社が好まれる理由にあると思う。
しかしだ!! それでも甘いと私は思っている。もっと振り切れる必要があるのではと考える。
確かに、恵文社や松丸本舗という質に拘り一般人の琴線に触れるチョイスをする本屋さんというのは魅力的であり、集客力も案外ある。しかし、それが購買に繋がるというと、やや懐疑的な部分もある。絶対数が増加したからある程度は増えただけであって、どうもそういった第三のリアル書店というのは、雑貨屋さん、つまりは見て楽しむ本屋さん、ファッション的書店になっているのではないかと思う。
はっきり言って、今のやり方ではネットでも十分にできる。ごちゃまぜ方法的なやり方なんかだとネットの方が有利ではないか、立ち読みも楽勝にできるし、棚の入れ替えもすばやく展開できる。恵文社ネット版は安易に作成できるのだから、やはり今の経営方針ではまだまだだと個人的には考えている。恵文社にいるときに自分ならどうするかを思考していたので、それを少し紹介すると、ネットでできなくてリアルでしか通用しないもの。それはなんなのか。それはこんな事ではないか。
本を選択してくれるサービス。
本を購入するというのは、大きく分けて二通りあって、目的がはっきりしている買い方と紹介による買い方。反論を防ぐ為におさえておくと、ぶらっと立ち寄った本屋さんでふと手に取った本をペラペラと立ち読みし、なんとなく気に入って購入したとか、ジャケ買いしたとかは、前者に含まれる。それはあくまでも自分好みのものを手にとって見たからで、目的が決まっていると言っていいと思う。それで重要なのが、後者の紹介による購買で、書評をみてとか、本屋さんのPOPを見てとか、尊敬する人から進められたとか、誰かに決めてもらって本を買うという方法。わたしはこれがほとんどを占めているが、あと、好きな著者つながりとか。
要するに、数多ある書籍を目の前に置かれても、選択できないのが人間で、それは時代の流れて確かに収斂されてはきている。この恵文社のように、ある程度本屋さん側にチョイスしてもらって、その中からお客さんがまた選択すると。ただ残念ながら、わたしはそれでも多いと思っている。やはりある程度絞ってもらっても、本選びの時は不安なものは不安だし、お金のある人は別だが、数千円を投資するわけだから、何かにすがりたいのが世の末だろう。
そこでだ。もっともっと絞ってみてはと思ったわけで、想像していただきたい。とある本屋さんがあったとする。そこには、10冊しか本棚に並んでおらず、本と本の間のスペースは2,3冊分はあいており、そこには亭主が厳選した書籍がたっぷりの書評と並べて置いてある。まさに、セレクト書店というべきか、ポイントなのはそこでしか、その選択のサービスは受けられない点にある。有名人なら一人で経営しても問題ないだろう。例えば、書評で有名な弾さんなんかがセレクト書店をオープンすればそれなりに流行ると思うし、もちろんネットでは同じサービスは止める必要がある。しかし、知名度がない人や法人がやるとなれば、コツコツとやるしかない。
仮に恵文社程度の規模で私がプロディースするとすれば、ネットで書籍を沢山読む人を集めて書籍を選んでもらい書評を書いてもらう。そしてそれを店の本棚にならべる。ポイントは一人につき書棚一つ。それと個性的でバイアスのある書評家を選ぶ必要がある。となるとだ、かなり特殊な本屋さんになるのは自明だろう。無造作に置いてある本をお客さんが決めて買うではなく、数冊に絞ってやり本をお客が不安満載で博打買いするのではなく、この書評コメントに感化されたから買おうと、そしてその書評を書いた人が魅力的に感じてきて、その人が選ぶ本なら自分と結構趣味が合うので買おうと、最終的にはその選ぶ人のコアファンになればいうことなしだ。なぜなら、好きな人のお奨めする本は、本を購入するという行為に直結するからだ。
ってな感じで、本を選ぶのではなく、人が選ぶ情報を買うにシフトする必要があると考え、それと重要なのが、ネットではその情報を流さないこと。これさえ徹底すればリアル本屋さんも当分はやっていけるのではないだろうかと思う。本の種類を抑えるとコストもさがるし。ただビジネスとしての初期段階では本屋というビジネスモデルは選ばない方がいい。もしやるとしても、ローカルな趣味経営で止めておいた方がいい。現段階で書店経営している場合は考えるべきだろう。
ttp://newsweekjapan.jp/stories/business/2010/03/post-1046.php
キンドルという商品の本当の価値は、(部品の総和ではなく)デザインと根幹をなすテクノロジーにある。実際、クアルコムやEインクなど、最終部品をつくっている企業はアイデアで稼いでいる。
では、アマゾンはどうか。アマゾンはキンドルの値引き販売を行っていないし、定価も09年10月以降、259ドル(第2世代キンドルの価格)のまま引き下げていない。しかも、ベストセラー本のキンドル版を採算割れの価格で販売する案を撤回。コンテンツ販売で赤字を生み出す可能性も消えた。要するにアマゾンは、ハードとソフトの両面で利益を得られる体制を築いているのだ。
電子書籍の世界で本当に重要なイノベーションを——つまり利益を——生み出しているのは、部品づくりの能力ではなく、目に見えないアイデアなのだ。
この漫画はたしか1990年代に書かれた漫画なのだが設定はもう少し未来になっている。
そこで描かれているテクノロジーや未来像がまさに現代のものと合致するのだ。
またそのゲーセンで流行っているゲームでは自分がプログラムしたロボットに乗って遠隔地の人と対戦できる。
いまでは当たり前の光景だが少なくとも1990年代では、ここまでインフラが整備されている状況に当時は違和感があった。
また何巻か忘れたがアイパッドやキンドルのような端末を使って新聞を読んでるシーンがあった。
ちなみにそのシーンは主人公の父親が新聞を読んでいるのだが、奥さんに向かって、せめて新聞だけでも
紙にしようよと泣きをいれているシーン、で反対する理由がゴミ捨てが面倒だから嫌だというもの。
うーん、リアルすぎるw
俺の知り合いも新聞は読まず、ネットの記事だけを読んでる、でもこれからはキンドルあたりが新聞も配信するようになれば
資源にも優しいしいいことずくめだな。
"アマゾンに対抗!" 講談社・集英社など日本の出版社21社、電子書籍協会発足へ
ttp://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51416981.html
34 名前:名無しさん@十周年[] 投稿日:2010/01/13(水) 11:58:29 ID:SFAicC1L0
アマゾンが印税20%とかで著作者と交渉始めたらどうなんだろw
この権利擁護団体が間に入って10%抜かせないと圧力かけそうだ
121 名前:名無しさん@十周年[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 12:27:14 ID:ejxC9jxx0
»34 amazonは印税35%。それでもボッタクリという意見がある
212 名前:名無しさん@十周年[] 投稿日:2010/01/13(水) 12:51:28 ID:SFAicC1L0
»121
それはすごい
既得権益者は勝ち目ないな
著者は尼と交渉したほうがいいな
132 名前:名無しさん@十周年[] 投稿日:2010/01/13(水) 12:31:41 ID:thPamuAE0
»34
147 名前:名無しさん@十周年[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 12:34:49 ID:3tHWJyoQ0
»132
アマチュア半プロあたりの作家なら、はなから既存の出版社を無視して、
電子書籍にも通用するエージェントを通して直接アマゾンなんかと取引するように
なりかねないね。
150 名前:名無しさん@十周年[sage] 投稿日:2010/01/13(水) 12:35:32 ID:bt37xtyB0
»132
amazonと直のほうが著者の権利擁護だな。
読者も安く読めて良いし、この流れは止まらないな。
インターネットの発達で、紙の本や雑誌は滅びる――そういわれてから何年たつだろう。そしてそろそろ事態が動きはじめたかと思われる節がある。まずグーグルが世界的にすさまじい量の書籍の電子化に乗り出した。コンテンツはこれでかなりの蓄積ができた。またリーダー機器の面では、日本では未発売だがアマゾン・コムがキンドルという電子ブックリーダーを発表し、一定の成功を収めている。流通も、アマゾンの電子ブック販売や、アップルのiTunesストアなどが手法をほぼ確立しつつある。
だがその過程で、電子メディア特有の問題も次第にあらわになりつつあるようだ。それを示す事件が最近立て続けに起きている。
アマゾン・コムのキンドル用に、オーウェル『1984年』『動物農場』の電子ブックを買った人は、6月に驚愕した。版元に問題があったから、としてこれらの本が手元のキンドルから勝手に消し去られていたのだった。いったん買った本や雑誌やソフトが、自分の本棚やパソコンから勝手に消し去られるなんて、これまでは物理的にもありえない!
アマゾンは、この対応について平身低頭し、二度とやらないと宣言した。が、そもそもそんなことができるということ自体に多くの人が戦慄した。そしてその舞台がまさにそうした情報統制社会の恐怖を描いた『1984年』だったとは、なんたる運命の皮肉か。
一方アップルは、オンラインのiTunesストアで販売されるiPhone/iPod用のソフトの健全性に、たいへん神経を使っている。わいせつ語が入っているソフトは、軒並みアダルト指定を受ける。先日、なんと普通の英語辞書がこれを理由に改変を要求され、ストアへの出店を拒否された。アップルは対応のまずさを認めたものの、方針にはいまのところ変化はない。
わが国では動画投稿サイト、ニコニコ動画が同様の問題を示した。酒井ノリピーの昨今の騒動を受けて、彼女の替え歌を歌唱ソフト『初音ミク』に歌わせた動画が投稿された。ところがなんとその歌唱ソフトのメーカーであるクリプトン・フューチャー・メディアが、そんなことに使われたら自社ソフトのイメージダウンだ、と称して削除を要求したのだ。
当然ながら彼らはそのコンテンツについて何の権利ももっていない。が、信じられないことに、ニコニコ動画を運営しているニワンゴは、この無根拠な抗議にあっさり応じて、問題の動画を削除してしまった!
ニワンゴの経営陣でもある西村博之がこの対応に疑問を述べ、その後同社は、問題の動画を復活させた――投稿者に対する自主検閲を促すコメントつきで。
ネットは著作権無視の違法コピーが横行する面ばかり取りざたされることが多い。でもじつはデジタルコンテンツの真の問題は、コントロールができすぎてしまうことなのだ。今回取り上げたケースが如実に示しているように。
これはネット法学の第1人者ローレンス・レッシグの10年前からの主張だが、それが急激に現実味を持ち始めている。紙媒体では物理的にできなかったことが、デジタル媒体では平気でできてしまう。そのとき、いま当然と思われている権利や自由があっさり破壊されかねないのだ。
いま多くの日本のコンテンツ運営業者は、抗議があればそれが正当なものだろうと不当なものだろうと、人に不快感を与えてはいけません、といった低級なお題目の下に問題のコンテンツをとりあえず消して、ほとぼりが冷めるのを待つ、というのがありがちな対応だ。ニワンゴの対応はその好例だろう。ブログの罵倒合戦くらいならそれでもいい。
だがデジタルメディアが紙媒体を置き換えるなら、紙媒体で建前にしても重視されている規範をどう維持するのかも考えるべきだ。目先の個人的な快・不快なんかより重要なことが世の中にはあるんだから。デジタルコンテンツも、それを考えざるをえなくなりつつあるのではないか。そしてそれを私企業の倫理だけに任せられないとしたら、どんな規制がありうるだろうか?
じつは今年、そのヒントになりそうな出来事がもう1つあった。脳科学者の肩書で各種メディアに頻出している茂木健一郎が、ネット上のボランティア執筆による百科事典ウィキペディアでの自分に関する記述に文句をつけ、それをかなり我田引水なかたちで大幅に書き直した。それに対して項目執筆者たちはひるむことなく、ウィキペディアの執筆ルールに基づいて茂木の苦情に形式的には対応しつつ、ほぼ従前の記述を復活させて、誠実な対応とメディアとしての中立性を見事に両立させたのだ。
こうしたネット上の自主的な倫理や規範も多少の可能性があるのでは? むろん、それがどこまで公的な権利保護の規制を補完代替できるかとなると、まだまだ考える必要はあるのだが。