はてなキーワード: エッセーとは
http://tottocobkhinata.cocolog-nifty.com/bizieizakkicho/2005/07/post_a8b1.html
引け目の方は実害がありませんが、帰国子女の慢心は実害があります。
私の見る所、一番の弱点が冠詞の使い方。そして、次が冠詞の使い方を含めてのライティングです。
http://anond.hatelabo.jp/20100821011138
の元増田です。
> それから、私が昨日のエッセーのようにリフレ論を説得しようとすることを、そこに論点がないはずなのに的外れなことをしているととらえられる向きもあるようですが、ご理解いただきたいのは、リフレ論というものが内的論理の必然としてナショナリズムに結びつくものなのではないということなのです。そこに必然的な結びつきがあるのならば、右翼政治家の言動にリフレ論者がみな責任を問われなければならないかもしれませんが、実際にはむしろ、リフレ論は左翼にこそ整合的です。石原都知事が重商主義的経済観をお持ちなのは彼の国粋主義的政治信条とつじつまが合うのですが、リフレ論の経済観は重商主義的経済観とは相容れないものです。後からユーザーとしてリフレ論を取り入れた政治家が、たまたまそれとは本来矛盾するナショナリズム的政治信条を持っていたとしても、リフレ論自体がそのことに責任を問われるものではないということを言いたかったのです。
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__100821.html
の「とらえられる向き」とは自分のことかと思いましたので。
「後からユーザーとしてリフレ論を取り入れた政治家が、たまたまそれとは本来矛盾するナショナリズム的政治信条を持っていたとしても、リフレ論自体がそのことに責任を問われるものではない」とはそのとおりでしょうが、その手の「ナショナリズム的政治信条」を、能動的にか受動的にかはさておき、認容するリフレ論者は、そのことの責任を問われるものでしょう。
> いわゆるリフレ派は本当にいろいろな立場の者がいるのですが、どうもいろんな政策のパッケージで一枚岩の集団に見られているようで困っています。いろいろな政策軸で論者のマップみたいなのを作ったら、一般にわかりやすくなるのではないかと思うのですが。
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__100821.html
今回の問題について、「一枚岩の集団に見られている」原因は、リフレ派側にあるんじゃないの? 歴史修正主義そのものについてApemanさんたちに論争を挑んでいる人なんていませんよね? リフレに比べれば歴史修正主義等は瑣末な問題で、それにこだわるサヨクがどーたらこーたらというように、わざわざ「リフレ」というキーワードを絡めたコメントばかりでしょ? 「俺はリフレ派だけど、それとは別の問題として、歴史修正主義は…」というような議論をした人がいたでしょうか?(歴史修正主義に批判的な立場の表明は、rnaさんと松尾さんがしたけど)
まして、同じ人を出すのもどーかと思いますが、
>あとは今回もそうだけど、リフレに全然関係ない、まあ、僕からみてもあまり周到に考えられてないつぶやきを大きく拡大解釈し、「歴史修正主義」だとか「右派」だとかさわいでリフレ主張のイメージダウン狙う姑息な戦略ね。これもこの10年でいろんなヴァージョンをみてきたが、得るべき教訓ゼロ
http://twitter.com/hidetomitanaka/statuses/21748207242
でしょ? Apemanさんたちがしているのは、リフレ派(の多く)は歴史修正主義に鈍感だという批判であって、リフレ政策は歴史修正主義的だという批判ではないのに、頭が悪くて誤読しているのか悪意があってすりかえているのかは知りませんが、的外れな反論をした上で、反リフレ陰謀をたくらむ「一枚岩の集団」的なレッテル張り。
松尾さんがApemanさんたちに反論をし、田中さんは黙認・放置しているということは、松尾さんが田中さんがしているような言動を許容しているという意味での「一枚岩の集団」の一員だということ。「リフレ」とさえついていれば、陰謀論だろうが誹謗中傷だろうが(経済学以外の、たとえば歴史学の)「専門知」を軽視しようが受け入れられる、松尾さんはそういう人なんだな、と思われても仕方がない。
これ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/24208162
ブコメがひどいですね。リストに挙げられた故人の名誉のために少しお話をさせていただく必要があるようです。
ホメオパシーは電波な医者が編み出した電波な理論だと思われていますが、それは違います。提唱された当初は、当時の先端医療の延長線上に立てられた有意義な仮説であり、当時の標準医療よりましなものでさえありました。その当時の信奉者は、必ずしもおかしなものを妄信していた非開明的な人物であるとは言えません。
今のように、ベルリンの壁を分子0.6個(平均値)しか残らないまでに薄めたものを教室や会社に噴霧すれば非コミュのお前らもいじめられなくなるなどというオカルトではなかったのです。(ベルリンウォールのレメディは、人間関係修復、いじめや鬱対策、戦死者やテロ被害者の浄霊などに効果があります。)
症状を引き起こす物質を薄めて体内に入れることで症状に対抗するという理屈。
何かに似ていると思いませんか?
非常に薄めた菌を植えて抵抗力を獲得する、ワクチンですね。
エドワード・ジェンナーが種痘の接種に成功したのは1796年、発表は1798年。それ以前から天然痘の接種は行われていましたが、なにせ病人の膿をそのまま植えるので、結構発病して死にました。薄めて接種することで危険性を下げ、うまく効果だけを得る方式を編み出したのがジェンナーなのですね。
一方ホメオパシーの始祖であるドイツの医師、サミュエル・ハーネマンが類似の法則を初めて世に問うたのは1796年(医学誌にエッセーを発表。これをホメオパシーと名付けたのは1807年?で、体系付けて理論書にまとめるのは1810年)。この時点では薄めることを条件としていないようですが、1800年には希釈したベラドンナを用いた記録が確認できます。
はい。ワクチンとごく初期の同種療法は、同時代の似通った発想なのです。
ハーネマンは希釈という手法をおそらくはワクチン研究から取り入れ、薬草でも同様に毒性を下げて薬効を得られるのではないかと考えたのでしょう。当時の最先端医療を勉強し、さらに拡張して薬草の効果にまで敷衍できないかと考えたのではないでしょうか。毒を薄めて薬にする薬草は結構多いですしね。結果的には同種療法の考え方は誤っていたものの、当時おかしくはない着想であり、悪くない医学上の仮説であったと言えます。
ハーネマンはアホではない。真摯な学究の徒でした。砒素中毒に関するまっとうな専門書を書き残してもいます。だからこそ砒素や水銀を処方していた当時の医療を嫌って独自の療法に走ったのであり、先端医療から希釈という発想を取り入れる聡明さも持ち合わせていました。
ふと思い付いてキナ皮を飲んでみたらマラリア類似の症状になったことから同種療法を考え付いたという逸話が有名ですが、ここに薄める手続きはありませんよね。そこは他人の先端研究を意欲的に取り入れた部分です。
ホメオパシーがまったく新しいオリジナルの着想だと言いたいホメオパスが元ネタを隠蔽したためにここがミッシングリンクになっているのです。もっとも、ハーネマン自身もそうだったのかもしれません。そのまま採用するのが癪で、薄めれば薄めるほど有効などという蛇足を加えたのかもしれません。
同種療法はハーネマンの元でほそぼそと試されていたのですが、これが世間の知るところとなったのは、1800年の猩紅熱の流行です。若草物語で三女のベスが死の淵をさまよう病気ですね。この時、上で述べた通り、希釈したベラドンナを使用しています。
ワクチンまでも開発されたご時世ではありましたが、標準医療としては依然、瀉血と(動物の血の)輸血が行われていました。そんなもん、ぴんぴんしてても死んでまうわ。
のちにナイチンゲールが語った通り、害のある行為よりは意味のない行為の方がましです。なので、同種療法は標準医療より生存率を高めました!
おめでとうございます。最先端医療である同種療法の有効性が確かめられました。
かくて華々しい実績を引っさげてデビューした同種療法はやがてホメオパシーと名を変え、1830年代までは標準医療に追われながらも果敢に戦っていたようです。が、1828年頃には、ハーネマンが次々思い付く新理論についていけないホメオパスも現れていました。ホメオパシーはもはやまったく医学上の一仮説ではなくなってしまっており、理論を信じて従ってきた者とどこまでもハーネマンに付く者という形でホメオパス同士の内部抗争が始まりました。
1830年からのコレラ大流行で英仏が水際作戦に失敗したため近代医療への不信が高まったことがホメオパシーの最後の味方となりました。ハーネマンは若い妻を娶り、パリの社交界に招かれさえもして、幸せな晩年を送ります。
しかし、それが最後の輝き。所詮は誤った仮説であったので、医療の目覚しい進展に伴い取り残されてしまいました。お疲れ様でした。役目を果たし終えた仮説に用はありません。誤謬でしかなかったホメオパシーは、そのままマイナーな代替療法の一種に零落していったのでしょう。
ですが、第一次世界大戦終戦後の暗い世相の中、ホメオパシーは再び胎動を始めるのでした……。ハーネマンの遺稿(と称するもの)が1920年に刊行されるほどに。
元増田です。
う~ん、でもそういうことだって頻繁にある訳じゃなく、何年かに1回という感じだし、自分の中で「この女をものにしたい」みたいな気持ちもわき起こらないような相手が突然誘ってくるわけで。逆に自分が「この子と仲良くなれたら毎日楽しいだろうなぁ」なんて思う相手からはメールがすぐ途切れてしまうという感じで。これをモテるとはおそらく言わないだろうと思うんですよね。
ですが、言われてみれば確かに、
というのも、当たっているような気がします。
相手が男同士の場合と女性の場合とでコミュニケーションの取り方を変えないといけない、ということなんですよね。
それをどのように変えればいいのか、というのが問題ですね。
単純に、たくさんの女性と接して慣れていく、という方法では駄目な気がするんですよ。慣れるのを待っていたら10年くらいかかって、その頃にはもう「一度、恋愛ってのをしてみたいなぁ」なんて言ってたら恥ずかしい年齢になってしまうのではないかと(今でも十分恥ずかしいのかも知れませんが)。
根本的に考え方が間違っているとか、私の中に何か大きな問題点があると思うんですよね。恋愛マニュアルや恋愛エッセー、学術的恋愛論の類は100冊くらい持っていて、実践すべきと判断したものは全てやってきたつもりです。エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んだりもしました(これは「恋愛」ということを離れても、純粋に名著だと思います)。
でも何をやっても目立った効果は上がらない。今は恋愛小説を読もうと考えたりしています。諦める前に、考えつく限りのことは全てやろうと思っています。努力はかなりしているつもりなので、いつか理想の彼女に出会えた日には、結構な成功体験記が書けるなぁなんて夢想したりしています(笑)。
予想以上のブクマがついてしまった。それにホットエントリにまた関連エントリが入ってるし。ちらっと見たけど、基本グダグダになってるのでこのまま収束して、別の話題でまたどつきあいをし始めるだけではないかな。というわけでブコメの返答の続き。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091208071006
Arturo_Ui おいおい, ぬるい! 「なんか、ひどいですよね」<それは君が「はてサ」を呼び捨てできる理由にはならん//「もうあからさまにバカ扱い」<単に論理展開に隙が多いから。「俺の作品は取り締まるな」という主張と見なせば平仄は合うんだが。
あはははは。他のレスでも僕がNaokiTakahashiさんを持ち上げてるみたいに見られてるけど、ちょっと違う。某所ではその一派とか言って敵視されてるのがね、そこまで言うかと呆れてます。呼び捨てにしてるのは、単にはてサが嫌いだからに過ぎません。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091207143049
はてサが憎いことはないですよ。そんな怨念を抱くような個人的経験もないし。ただはてサが嫌いなだけですね。ってか、サヨクの人ってなぜかすぐそういうこと言い出しません? 嫌悪と憎悪の区別がつかなくて、俺に反論する奴は全部けしからん、みたいな。被害者意識が強いというか自意識過剰というか。妙にエスカレートする理由は、そこにもある気がしますよ。
それは許して。
fromdusktildawn この件に関しては説得力のあるブコメに☆をつけるというより自説への応援ブコメや自説を危うくしかねないブコメを貶めるブコメなら少々論理が怪しくても☆を付けまくる一部集団がいたな。数希を応援する信夫的。
たぶん、そこがはてなの問題というかきついところというか。たいてい中身は問題にはならない。この件だけじゃないと思いますよ。
NATSU2007 婆さんの繰言を本気にして「ほら女だってこう言ってる。だから自衛しない方が悪い」と鬼の首盗ったように吠える奴がいる以上、老害の言説を利用されないように叩き潰すも1つの道。
こういう意見が出てくると思った。これだけの短文でも突っ込みどころが色いろあるんだけど(ぱっと見て三つくらい)、はてサでもネトウヨでもいいですが、ネットである言説を「叩き潰」そうとするから碌な事にならんのだ、とは言っておきたい。無茶なこと言って自己正当化するのはやめた方がいいです。
分かって書いてるんだろうけど、漫才のところから言われてもな。ようは、バランスの問題、程度の問題。
tatsunop 呆けた婆さんの戯言でも、トンデモをスルーせずに突っ込む人は必要。極論をベースに論点を構築するとぐだぐだになって徒労が大きいというのは同意できるけど。
なにがなんでも必要かどうか分かりませんが、相手の仕方も程度の問題だと思います。
cheapcode 何を今さら。こういうのに積極的にからんでうだうだくねくねするのがはてサの醍醐味だろが。俺様意見を一方的に主張してはてブ界隈で注目されたいだけで、そもそも誰も”議論”なんかしてないんだよ。
あははは。ごもっとも。
parallel-world 『題は「用心するということ」』/水伝「良い言葉を使いましょう」、ゲーム脳「ゲームばかりしてはいけない」が、本来のお題なのだと信者は言ってるよね。ニセ社会学やニセ犯罪学は勘弁してくれ。
曽根綾子のエッセーのダボラぶりは僕は擁護してませんよ。その手の信者と並べられるとちょっと困る。それに曾野綾子は社会学や犯罪学の見かけを借りて論じてるわけでもないので、ニセ社会学・ニセ犯罪学というにも当たらない。それ以下。
uheh 無駄じゃないと思うけどなぁ。自分の場合、いままでジェンダー論食わず嫌いだったけど、この件でちゃんと本読んでみようと思ったよ。
これは良かったですよね。いや、皮肉じゃなくて。
gouk 確かに戦後すぐってのは生活のためにそういう格好してああいうところうろうろしてた人がいたんだよ。しかしそれを、今の犯罪に当てはめるのは無意味。しかし真に受ける存在がいるから彼女らがピリピリする
まあ、真に受けるアホは軽くいなして鼻で笑っておけばいいと思うんですよ。しつこいけれども、程度の問題といわざるをえない。
chousuke7 「はてサ」は、彼ら独自の文法と文体で話している。
彼ら独自の「文脈」もありますよね。
hygienic 徒労と言いながらちゃんと整理するとはwww(略)
ああ、受けた受けた。本論よりも、そこが受けるととっても嬉しい。これが一番気に入ったブコメだ。ありがとう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091207143049
かなりブクマがついたので、少し答えておきます。とりあえず、コメントには感謝。
anigoka はてサという括りが適当かどーかは知らんが、流れは大体あってる気がする 深刻な問題を肴にすぐ言葉遊びに変えてしまう恒例の面子も勢揃いしてるし
出てくるメンツが、シートンからhokusyuに飛んで、Apemanも言及しているので、フェミにはてサが乗っかったと見た方がいいでしょう。それだけではないのでしょうが、そう割り切った方が分かりやすい。
漫才だと見れば、無駄にヒートアップしても落ち着けるんじゃないですかね。アハハと笑って、あほくさーと捨てればいい。
zaikabou 『どうせまたいつものやつがいつものように始まっただけだから』それで毎回毎回これだけ巻き込むんだから凄いよね、みんなわかってるはずなのに。優秀優秀
結局、例の背理法の使い方が典型的なんですけど、一見「論理的に正しい」から、いい加減に読んでるとそれが正しいと普通は思い込んでしまうんですよ。でも、おかしいことはおかしい。今回のは、そのいい例になったんじゃないでしょうか。
はてサは叩かれてしかるべきだと思っていますが(上述のように、見かけが論理的で錯覚しやすいので悪質)、曽野綾子のエッセーもただのダボラだと思っています。これを書くと中立を装うなとか言われてしまうんですが、そんなつもりはないです。
filinion 最後の左翼うんぬんはさておき(部分否定と全否定の混同はむしろ詭弁の基本。戦前の統帥権の論理も「踏み絵」パターン)、タイトルには首肯せざるを得ない。うかつに触れると大変なことになるのが今回よくわかった。
はてサが絡むので最後にちょっと左翼に触れたのですが、詭弁で煽るのは右左同じでしょうね。
atawi 今回はもうげんなりするばかりだった。コミュニケーションってなんだろうね?
最初から無理な話なんですよ、ネットでコミュニケーションをとろうとするのが。まず諦めから入ったほうが、もめてもともとだから気楽じゃないですか。
あの方々はああいうことを言いたがりますよね。
Arturo_Ui 「理屈だけたどるとはてサ・フェミの方が正しい」が、レッテル貼って見下さなきゃ自尊心が、ってか。不毛だな//で、NaokiTakahashi氏だけ「さん」付けは何故?増田は陵辱エロゲを予防拘禁の対象にされたくない、とか?
いやいや、エロは好きだけどエロゲ趣味はないです。でも、NaokiTakahashi「さん」なんて、はてサにはもうあからさまにバカ扱いされてますよ。なんか、ひどいですよね。見てられない。
ヲチスレにはいません。2ちゃんは見てないです。今度の件でいくつか記事を読んだら、大体見当がついたというだけです。「いつものやつだ」と思いました。
gokino2 「どうせまたいつものやつがいつものように始まっただけだから。」<いや、俺らもその流れの中で毎回楽しんでるからいいよ。実を言うと今回(罵ってる相手含め)いろんな人の人間臭さに親近感を覚えたりもしたんだ。
うーん、楽しんでるならどうぞという感じですが、もうちょっとカゲに隠れてやって欲しいな。無理なんでしょうが。
koisuru_otouto 曽野綾子とそのデッドコピーである増田みたいなのが「性犯罪者が悪い」って最初に流してるのは そうしないと善人として被害者に説教できないからでしょう。レトリック返しをしなくても、そもそも自衛教自体が屑だし
元エントリの追記になるんですが、これもあのエッセーの誤読の典型です。曽野の意図としては「被害者に説教」しているのではなくて、「まだ被害にあってない女性」に対して「用心せよ」と一席ぶっているのです。もっとも、被害者を例に出してますけどね。話がずれる原因の一つはこれです。
Francesco3 「もちろん決定的に悪いのは犯人」「もちろん襲った米兵が悪い」<これ書いときゃどんな暴言も許されるって勘違いしてるだけだし、悪いとおもってたらそもそもあんなこと書きません。
これしきのババアの説教が、それほどの暴言になりますか。大きく見せて喚きたてるのも程々にした方がいい。あなたの言ってることは、あまりにも強引です。
Midas 増田は甘い。問題はむしろ「なぜそこまでザルな意見にバカ女どもはカチンときてるのか」「なぜバカ女のデタラメ感情論にエセ左翼は騙されてるのか」彼らは今回1線をはっきり超えた。修復不可能なとこまでいくだろう
あははは。修復不可能なのは毎度のことですよ。「エセ左翼」が騙されるのは、それが単に思想的・政治的なポジショントークだからで、これも毎度のこと。今回に限ったことではないと思いますよ。
hiruhikoando というよりは「曽野綾子に絡まない方がいい。(言っていることを)議論するだけで徒労」だと思うのだが。
それ、まんまフェミとはてサに言ってやってください。
namawakari イデオロギー批判って便利ですね、本音ダダ漏れでも支持してくれる人がでてきてくれるし、何か言った気になれる。/「あいつらは左翼とフェミだから」という切断をして「常識」を保存して、それでいいのかねえ。
「常識」を覆すのにせよ、こんな無駄な議論の混乱は必要ないです。だいたいそれで損してるの、「はてサ・フェミ」の人たちでもあるんですよ。
k-5t 説教レベルに落とし込んで「説教だからあれはナシ」は都合良すぎる、ナシにはならんだろ。曾野をピエロに仕立て上げて一緒に踊っているサヨクまでピエロに見せちゃうっていうちゃぶ台返し「レトリック」にみえるな
最初から「説教レベル」の話を大きく見せるところに間違いがあったんですよ。言葉を借りると、この件では曾野綾子なんて最初から「ピエロ」。「ピエロ」にキレるフェミ・はてサが「ピエロ」になって、ついに漫才化するのは当然なんじゃないでしょうか。レトリックをもちだす必要はないと思いますよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091207143049
k-5t サヨクがこの痛いババアを餌にウヨク叩きしたいだけなんじゃねえかって意見ならわからんでもない。もう少しストレートに書けよ。
ま、一言で言ってしまうとそうですよね。で、みんな好きなんだなあ、こういうネタが。
gokino2 念のためいっておくが、増田の微妙に曽野擁護論には賛成できない。あれはただのババアの説教レベルじゃないから。これに近い認識のババアが実際に結構いそうなのは同意するけど。
あ、曾野綾子を擁護する意図は全くないです。でも、こんな猛烈な議論のきっかけやネタにするほどのもんでもないでしょう。「これに近い認識のババア」たちの若い女性に対する嫉妬には、鼻で笑って颯爽と歩いてる方が女性として素敵だと僕は感じるんだがな。まあ、それはともかく、下らないネタには、下らないなりの対処のレベルというものがあるんじゃないのと思いますね。
再び前のはてブに戻って。
hobbling 私はボケた婆さんの繰言をまともに扱っても仕方がないと思うが、日頃ストレスを受けてるなら過剰反応する人もいるだろうね。嫁姑の争いを見ている旦那の気分。
「嫁姑の争いを見ている旦那の気分」、お見事。
シートンの最初のやつを見ても、そんな強烈な「自衛論」なんて誰も言ってないのに、いきなり「男は刺されても構わないのか」だもの。こういう屁理屈が大きく膨れていってるだけ。
自分の意見を述べる場合、日本語だと「思うに-」とか「私の意見としてはー」とか「ーと僕は思う」とか、「ー気がする」とかそういう表現が多い、気がする。
ちょっと違うけど「もしー様のご都合がよろしければ」とか「お手隙の場合」等の枕詞をつけて相手を慮ったりする。気がする。
また、自分の中身を曝け出す場合「恐縮ですが」とかつけて、更に文章を読んでいる相手を上におこうとする傾向が高い、よね?
まあ皮肉で読み手を上に置く場合もありますが。
他の言語はというと、この点について語れる程近しい外国語が英語(不得手)位しかないので引用するのも恐縮なのだけれど「In my opinion」とか「From my point of view」とか使って自分の主張だと言う場合もあるけれど、大抵のエッセーでは堂々と「It isー」と書く。日本語的感覚だと「I thinkー」とか入れた方がいいんじゃね?と思うような内容でも。「ーである」という断言。思うに、英語の文だと書き手が勝手に自分の意見を書き散らしている以上、その考えは書き手の単なる愚痴や主張や考えであって、別に社会通念ではないと読み手は受け取る準備が出来ているんだろうな感じました。
余談だけれど、自分が受験の時Z会の速読英単語の文章なぞ、かなり偏った思考の内容が、著者だけの考えなのにまるで「世の中はそういうものである」という表現で日本語訳されていて、その文化的差異に驚愕した。英単語はちっとも頭に入らなかったけれど。
日本語の場合直接断言的な書き方をすると、譬え直接明文化してなくても、自分の考えは社会通念や常識だからお前ら聞いておけよ。俺の言葉、Hey YO!みたいなそういう受け取り方をしなくてならない雰囲気になってる方は多いと思うのです。
それを更に「常識」って言葉を添えて書くと、書き手の「みんなそういう考えでしょ?これと違う考え方の人って何考えてるの」という空気が漂うように私は思う。ちょっと傲慢な感じというか上から目線が感じられるのです。
討議や議論があって作成した文章ではない、個人の考えとして書かれた文章というものは、書いたその個人の意見であるというのは、英語でも日本語でも変わらないのだから、態々常識って銘打つのは結局の所、読み手に常識と捉えるように指示している命令なのでしょ?と。
まあ議事録や公示文など人に読んで貰う為に複数の人間で意見を詰めたとしても、書く人が総意をきちんと理解せずに書いてしまえば個人の意見が入りまくるわけですが。
あのYahoo!ブログで物議を醸した文章を書いている人は、日本語文章の場合相手がどういう風に自分の文章を受け取るのか?という点と相手の文章を読んで理解して自分の意見を洗いなおす、という努力が欠けているように思えます。まあ一言でいうと傲慢。
4004世代と仰るので分別のつく年齢であると推察出来るのだけれどそれ位のお年の方が傲慢と捉えられてしまいかねない文章を人目に晒すのは趣味か何かなのでしょうか。
ま、この文章もね!世代で言ったらゆとりなんだけどね!うそ!もう少し年上。
いろんな報道で売り上げが5倍だとか何だとか言われてるんだが、その割に話題にしている人間を全く見かけないのはどういうわけだ?
というか、ワーキングプアと呼ばれる連中にあの手の文学作品を読む時間的精神的余裕があるとは思えんのだが。
Wikpediaの項目によると、読売新聞5/2付の記事がもっとも古いらしく、その3ヶ月前の朝日新聞には、売れているという記述は無いものの作者の小林多喜二を取り上げた記事が存在している。
そして5月中旬から今に至るまで、他の新聞社やメディアもこれに追随するように「蟹工船が売れている=ワーキングプア・格差社会」の論調が見られるようになっているわけだが、その根幹になる「若者に蟹工船が流行中」という事象がちっとも体感できないので、どうも違和感を感じざるを得ないんだよな。
もし誰か知っているのなら、格差の底辺に居るような人達が、上記の5月以前に蟹工船を絶賛しているようなURIを教えて欲しいんだが…。
まあ、そういう人達はネットにすら繋げられないのかも知れんけど。
■■追加■■
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080502bk02.htm
プロレタリア文学を代表する小林多喜二(1903??1933)の「蟹工船(かにこうせん)・党生活者」(新潮文庫)が、今年に入って“古典”としては異例の2万7000部を増刷、例年の5倍の勢いで売れている。過酷な労働の現場を描く昭和初期の名作が、「ワーキングプア」が社会問題となる平成の若者を中心に読まれている。
2万7千部ねえ…。それって平成の若者の何パーセントなんだろ…。
■■さらに追加■■
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-03-16/2008031614_02_0.html
青年トークで「蟹工船」エッセーコンテストで大賞を受賞した山口さなえさん(26)は、不当解雇され労働組合も助けてくれなかった経験から「私たち世代が絶望にならざるを得ない構造を、現代の蟹工船として書きたかった」と発言。長く派遣で働いた同準大賞の狗又(いぬまた)ユミカさん(34)は「『蟹工船』に共感するプレカリアート(不安定労働者)を代表して言いたい。『私たちをもっといい船に乗せろ』」と叫びました。
まあ、自分の事をプレカリアートなんて名付けてる時点で色々と染まってる人だとは思うが。
赤旗Webサイトで「蟹工船」で検索をかけると、今年初頭(1??2月)頃に色々とプッシュしている様子が伺える(それ以前となると2005年や2002年と散発的に取り上げられているだけ)。こんな記事があった。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-02-27/2008022701_03_0.html
デビュー作「一九二八年三月十五日」などで「貧困を生み出す社会のしくみに目を向け、これを打破する闘争を主題にしたところに多喜二の最初の大きな飛躍があった」と不破さん。とくに「当時の非正規の臨時工を描いた『蟹工船』がいま若者に読まれ、たたかいの力になっていることに多喜二が喜ぶだろう」と話すと、「ホーッ」と感嘆の声ももれました。
少なくともこの時点で、不破の脳内では若者が蟹工船を読んでいるという事になっていたらしい。赤旗以外のそっち系も調べてみるかな。
■■もっと追加■■
記事の発端は、5/2の読売の記事だと思われるわけで、
今年に入って“古典”としては異例の2万7000部を増刷、例年の5倍の勢いで売れている
これが本当に記事にするような事象なのかどうかを検証すべきなのかも知れんね。特に近代文学なんて元の販売スケールが大きくないんだから、ちょっとした事で数倍に跳ね上がったり数分の一に激減したりというのも珍しくないような気がするし。
2万7千部なんて、どこかの大手書店の営業がプッシュするとか、どこかの活動家が講演会で取り上げたりする程度で軽く到達できそうな数字に見える。あるある大辞典で納豆が売り場から瞬殺されるようなご時世だしな。
それに元の記事では「5倍のペースで売れている」としか書かれてないのに、いつの間にか購入者の大半が若者だという事になってしまっているのも気になる。購入者のプロファイルをどうやって知ったんだろ。中高年をメディアで煽ってちょっと騙くらかすだけでも数万部は軽くいけると思うんだが。赤旗日曜版だって100万部いってるんだし。
結局エッセーと日記を好むようになって作品は後回しに。作者の自信作、よりはもう少し切れ味の鈍いわかりやすいほうを好んだと思うし、さらにはエッセーのような構成されたものよりもそのまま出てきた日記の文章が良かった。
ネットで話題になることもあまりなかったように思う。新本格自体がそうであったとも言えるし、ネットの発達がはっきりとした頃はもう西尾維新が出ていたからその流れもあったかも知れない。ところで流水と維新はべたべたとくっつくな!お前らは森さんを理解できてないじゃないか!!と怒っていたこともあったけど、今は怒りや嫉妬の気持ちはなく、ただ受け取り方が違うのだなと思う。違う人間だから当たり前といえば当たり前で。本当に当然のことを言ってしまうのもつらつら事だから然りとかなんとか。
最も面白かったのはその思考で、現状を把握することの冷静な態度とその記述に私情の入らぬこと。どうもうまく言葉にはならないが、私はあの分厚い日記を読んだとき、いっぺんでそれがわかった。吾妻ひでおさんは玉子様をエコロジーと言っていたが、限りがあり、それを理解し、望む将来を自分で考え、その結果を実現しようとするきわめて現実的な姿勢を言い表してないと思うし、私の感じ方に近い人を探すのもなかなか大変だったことを覚えています。
とにもかくにもいっぺんでわかったということとそれからのつながり、数年間は私の研究とうまく接合できなかったがそれはそれとして現実の不具合はさておいて、森を読むことは稀有な体験だったと思う。あれがなければ今の私はない。ありえない。おそらくまだ辛い精神を抱えて右や左へ行っていたのだろうと思う。
あんまり自分語りの多く、それでも尽きないことは驚きであります。