はてなキーワード: 利他とは
さの対策。
平穏なブログ運営。だから増田で。気づかれても目をそらさず否定できる。
<中立ごっこ、未熟者と失笑されようが、物言えば唇寒しの状況は気持ちが悪い>意欲は買うが、長年の南京論争を眺めてきた増田には、新参者が手首足首を縛り氷河に飛び込む軽業師に見える。酷な言い方だが、あがいて浮上を繰り返しても、ガスが腹の中で膨らんでいるとしか思えない。如才ない奇術師はパンツに剃刀を縫いこんでいる。南京論争には初心者が陥りやすいトラップがあり、反論もルーチンワークの仕掛けになっている。情熱も知識もない増田だから助言。長文も対応策のひとつ。ひるまないでいただきたい。
三項目の問題点、最後に可能性を探る。
(1)数字
<それでおたくは何人と考えてる訳?>南京事件に触れ、まず数を考える者は多いらしく、頭に浮かんだ疑問をそのまま論争に持ち込む初学が後を絶たない。四万に留意する事。四万以下の数字を主張するのは、はてサに<虐殺三十万人説を証明しろ>と迫るのと変わらない。一蹴されるのが落ちだ。数字は慰安婦強制性では虚偽説の代表的論客である秦郁彦が、廃棄処分を免れた現存する日本側文書を軸にし、明らかに不当な、不法なケースを取り上げて最低限の数を順次加算したもの。覆すには秦の著書を購入し、関連書を参照しなければならない。本末転倒で、不本意な作業を強いられる。四万以上の数を扱う場合は当然資料も増え、最終的に中国側の農村部での人口推移の調査報告まで視野に入れなければならなくなる。
<証明できるのか? 二十、二百かも知れないではないか>見出しの百の文字に惑わされてはならない。元中尉の名誉回復裁判は人数が焦点ではない(数にこだわるなら政治屋弁護士と心中する覚悟がいる)。増田の知る中ではてサに「百人も殺したのだから処刑されて当然」と主張する論者はなかった。「国を挙げての士気高揚、その象徴的人物が戦後に個人の責任を問われた」事件と認識され、同情的な見方もある。産経の「捏造」、「真っ赤な嘘」が指すのは、言論統制、検閲を断行した政府、それに唯々諾々と従った当時の報道人と国民に対する侮蔑だと把握しておけば足元をすくわれない。
(2)検証
テンプレがネット上に大量に転がり、手軽さも手伝うのか、初心者がもっともはまりやすく、もっとも論立てが煩雑なのが細部の検証だ。手軽な詰問に対しては反論も数通りのテンプレが用意されている事に気づかないといけない。相手は気分に応じて資料を選ぶ。複数あるのは遺物の集積と相互依存で史実が成り立っているからだ。独自の疑問点を設定するには書籍の購入が必要であり、新書一冊ではまかなえない。たとえば(1)の不当、不法に言及する場合は法学に踏み込むことになる。質問者をよそおって相手の出方を研究する手口も使えない。また万一資料に不信を植えつける事に成功しても、一人の証言者、一枚の写真に疑問符を付けただけで終わってしまう。労多く功無し。
(ただし「功無し」は学術上に限って。目ざましい功労者にポストを提示する教育機関が現れても増田は驚かない)
(3)政治
<謝罪を繰り返させられ、外交で押し切られる隙を残すのは国益を損なう。否定派には存在意義があるのではないか>メタ視線は悪くないが、楽な筋道ではないのは胆に銘じる。最初に日中間に「南京問題」は存在しない事を確認してほしい。政府は「肯定派」であり、中国は賠償も新たな謝罪も要求していない(調査のために遺骨を発掘しろと主張する者がいたが、ビルや田畑を取り壊す政治力や膨大な費用を日本政府が負う事はない。有志による個人負担となる訳だ)。決議に反した閣僚の発言が、政治問題化しないための「強い遺憾」と「村山談話」の応酬が謝罪の内実。また外交問題ではなく国内問題とする誘導に抵抗するのは並大抵でない。はてサに<中国が怒ってる、問題だ>と、一時期の朝日の影を思い描くのは悪手だ。富田メモによって、靖国親拝中断が中国の干渉によるものとしてきた右派は、靖国を国内問題に渡らせないために「天皇」と靖国の距離を広げざるをえなくなった。辞任問題に踏み込めば、閣僚らの特権的地位について逆に問い返される覚悟が必要。初歩の問答を想定しよう。
「旧軍はバターン半島で捕虜らに最大限配慮した。非難は不当」が持論の司令が、「A区調整、全住民を安全に配慮しつつ速やかにB区へ避難させよ」と命じられたら?
「日本は資産を持ち出してまで朝鮮に富をもたらした。利他的で手本となる施策であった」と講演する政治家が、経済相か雇用対策の特命相に任命されたら?
不用意に無償の政治カードを世界に乱発する人物が、通商代表として使節団を率いるとしたら?
(バターンに関してはネット情報でカバーできる。植民地事情に関しては英国と植民地印度の貿易収支が英側の赤字であった事、双子の赤字を抱えた米国が二つの戦争を始めるほど好景気だった事、当時の日本政府と国民が、兵士の生命と財産を供出しても特アの隆盛を切望したと夢想するだけで間に合うだろう)
(4)トウハセイ
<嘲笑と罵倒では相手は聞く耳を持たない。壁に大声でがなりたて、言い返してこないとふんぞり返るようなものだ>読者を無視さえすれば、論争で宗旨替えした否定派が皆無という事実がこの主張の説得力を後押しする。ここで唯一のトラップは、はてサの多くが自身の党派性を否定していない現実だ。質問に質問を重ねるのを逃亡とみては失敗する。彼らは論争に通じ、経験から言質を取られ議論が拡散する事を嫌う(「黙らせるための問答で満足している」と左派から非難された左の論客もいたが)。<イデオロギーで記事を選る、コメ欄に同調者が群れる>といった非難は想定内なので、泥仕合に持ち込むつもりがなければ控える(泥試合が有効な左派も存在するが、医療、疑似科学がテーマ)。党派性で彼らの選択ではなく論理が歪んでいると考えるならば、事の検証が欠かせず、(2)へと戻る。膨大な過去ログを読む必要も。しかし、増田が提案できるのはこの(4)だけ。遠回りで時間は取られるが、非専門家でも順次対応可能で、一点突破も目指せる。
http://anond.hatelabo.jp/20081109193621のコメントを受けて。
なんとなく、ズレが気になっていたのですが、ちょっと判った気がします。
私は衝突から理解が生まれることも、衝突がなくても理解が生まれることも経験上あると思っています。
しかし、今回あなたと私の意見がずれていたのは、私はお互いが自己主張をすることを「ケンカ」「衝突」とは捉えていなかったせいもあります。
自己主張をしなければ変わらない、ということであるのなら賛成です。
そりゃあ、二年も付き合えば、生活上の問題においてずれも生じますし、それをすり合わせなければならないこともあるでしょう。
ただ、衝突をしないというのは、自己主張をしないというわけではないと思います。
自己主張をして、お互いの意見がズレても、相手を尊重しつつ一番良い方法を話し合って解決するのは「衝突」ではないでしょう。
私も言いたいことは言ってありますし、(すなわち言い残したことはありません)
私は「自分が好きな人」のために何かをやるということは、「自分の為にやる」ってのと比べて真剣度も高いし、幸福感を得られる人間なのです。
(その人間観を否定されても、「まぁ、人それぞれだよね」としか言いようがありませんが・・・)
きっと私はあなたより利他性を重んじる生き物なのでしょうね。
相手の幸せのために身を引くというような古風な女ではないとは感じてはいますが、それに近いような。
あなたはきっと「熱い」生き物なんでしょうね。自己を通すことに重きを置くような。
この恋は、もう終わっているのだから冷めたならそこまで、とわかって良いのではないでしょうか?
http://anond.hatelabo.jp/20080221101627
同情で現カノと付き合い続けて同情で結婚するのが相手の尊厳を重視した利他的な行為!とでもいいたいのかね?
両天秤かけていいほうを選ぶのが「人間として酷いこと」だとも「一生背負うべき罪」だとも思わない。合理的かつ妥当な行為じゃないのかな。
そもそも男女間の関係を深刻かつ神聖なものと考えすぎてんじゃないの?出会いがあれば必ず別れがあるんだから(演歌みたいだけどね)、男と別れたぐらいでいちいち病気になってたら長生きできないよ。もっと気を楽にもちたまい。
相手の尊厳を無視した自己中心的な行為で、相手が傷つかないと思うのは大間違いだし、甘えもいいとこ。両天秤かけるなら、自分が全て悪く人間として酷いことをしたという罪を一生(は無理だろうが数年でも)背負う気概を持て。
一連の書き込みを見て、本棚の奥から村上龍の『オーディション』の文庫版(幻冬舎文庫)を手に取った。
斎藤学が解説を書いているんだが、当時読んで印象的だった言葉を思い出して、それを読もうと思ったから。
彼女たちは頼りなげで、神秘的で、弱々しくて、それでいて愛に飢えていることを全身で訴える力を備えている。こうした女性に弱い一群の男たちがいるところから、この恐怖劇が始まる。彼らは本質的なところで自己評価の低い、だからこそ人に頼られることを生きがいにしているような男たちである。彼らは、彼女たちに魅かれ、彼女たちの苦境を救い、その一部は結婚にまで至る。こうした男たちは、実はナルシシスト(自己愛人格者)である。彼らの一見したところ利他的に見える行動は、他人を用いて自己評価を高めたいという、自閉的で自己愛的な動機に発しているからである。
(中略)
考えてみると、夫婦関係とは子供返り競争のようなものである。居酒屋のアル中二人の関係に良く似ていて、先に酔い潰れた方が勝ちである。負けた方が金を払ったり、酔った者を家まで運んだりする。
(中略)
最も稀なのは、親密でありながら対等な男女関係が、結婚後も維持されているという場合である。成熟した大人どうしの関係が、長年にわたって続くためには、一方が他方の子どもになろうという野心が、意識的、意志的に排除されていなければならない。だから、こうした二人は、二人ともどこか寂しい。それで良いのであって、大人とは、寂しさと共存して生きられる人のことである。
俺はかつてやはりそういう女性に振り回されることを自ら選び、共依存の関係となって、二人で手首の同じところに傷を作ったりしたことがあって、けど、ちょっとしたきっかけから俺が彼女に振られ、そしてその二週間後に彼女が泣きながら俺に電話してきたときに、何か憑きものがすっと落ちたかのように冷静になって、「こういう繰り返しはもうやめにしよう」と言って彼女との関係を本当に終わりにして、それ以来、誰かを救うことなどは不可能なことであって、倒れている人に手を差し伸べることはできても、立ち上がるのはその人自身の力であり、俺の手によって立ち上がらせようとしても一緒に倒れるだけだということを悟り、そして、そうした誰かを救いたいという思い(引用部にあるように、まさにそれは俺の弱さが為すものでしかない自己愛なのだが)を捨て、自分の手の短さを知り、共依存として誰かを好きになるのではなく、お互いに独立した一個人として尊敬と愛情を持って一生を共に過ごすような関係をいつか持てればいいと生きてきた。
が、そんな字面だけの理想を体現するのはほんと難しいものだなと、最近プライベートが上手く行かないことで思い知らされている。いっそ憎めればいいのにと好きな人のことを考えたのはいつ以来だろうと過ごす日々。自分の弱さを認めて受け入れて、その上でそれに甘えることも開き直ることも自己否定して強がることもなく、ただ全てをあるがままのものとして自然と生きるというのはつくづく難しいものよ。
(考えを深く煮詰めていない点と日本語のつたなさはご容赦頂きたい)
ソフトウェアではなく、「企画」のオープンソースコミュニティを作りたい。
イメージはsourceforge.netの「企画」版。
WEB2.0時代と言われる現在でも、オープンソース文化はネットの世界に留まっている。
この素晴らしい文化をリアルにも広げたい!広げたら、きっとすごいことになるはず!
オープンソースの利点は大きく言って、
1.生産性
2.人材(共感)獲得の容易さ
にあるのではないかと個人的に思っている。
世界的・国家的・地域的・・・、どんなレベルにも目的にも通用するのでは?
プロジェクトの運営、仲間集めや資金集めを容易にする仕組み。
これがあれば、誰でもアイディアひとつで世界を変えられるのでは?
例えば、先の統一地方選の最中に、選挙の手伝いをしながら考えた妄想。
「R30党」という若い人限定の仮想政党をネット上に作り、仮想党員(10-39歳)とサポーター(40歳以上の人)を募集。
政策の討議・立案をし、実際に民間で考えた国政・地方政治のマニフェストを策定。
もし、ムーブメントが起きれば、実際の政治団体として届け出て、選挙に繰り出す。
この立ち上げがオープンソースで出来たら、とこれまた妄想したのでした。
もっと考えを煮詰めたいので、もし少しでもピンときたら言及してください。
ゲーム理論は、プレイヤー同士が利他的な行動を取った結果として誰も幸せにならない事態になるケースについても教えている。
まず、アダムスミス的な利己による全体効用の向上という理解を前提とした上で、必ずしも利己(あるいは利他)が効用を増加させない例があることをゲーム理論から読み取ることができる。
みんなが幸せになることを目標とするのであれば、利己のエネルギーを善用するにはどうすべきかという立場に立つべきであろう。残念ながら利他主義はエネルギー不足だ。
それじゃあ一度しか会わないと予想される人やもう会わないと予想される人に機能しないし、常に相手の行動に利己的な側面を見るようになってしまう。そうなれば社会は他者不信状態に陥るし、互恵的利他主義が機能しにくくなると思う。
更に、社会には頭の良いやつばかりじゃない。人間不信状態になれば、いくら囚人のジレンマゲームを教えたところで、相手の親切の裏を読み、より少ない利他的行動でより大きな利益を得ようと行動する輩、常に相手が与えてくれた利益より少ない利益しか与えないように用心する輩は相当数現れるだろう(と思う)。そうなれば頭の良いやつだって、次第に利他的行動を取ることによる損害が大きくなるし、ごく少数の人間を相手にする場合を除いて、より利己的に振る舞うようになる。こうして社会が悪くなっていけば、被害は全体に降り注ぐ。
叩かれる前に追記:
「頭悪い」使いまくってるけど自分を棚に上げてる訳じゃないです。理論を説明されても、よーく考えると何となく解るような気がするけれど、何か実感が無くて理論を疑ってしまうような人間なので、こういう私みたいな人間に対しては理論だけじゃ無力だってことを言いたいんです。要するに、説明されても理解しないバカのためにこそ道徳はあるんじゃないかなと。
社会は互恵的利他主義で成り立ってる。ちょっと考えれば誰でもこういう結論に辿り着くだろうけど、普段は誰も考えもしないし、意識もしない。道徳による利他主義を教えず、利益至上主義を教え込めば、頭のいいやつは互恵的利他主義を考慮して行動するだろうけれど、頭の悪いやつは目先の利益に囚われて(最終的には損になることにも考え及ばずに)他者を踏み躙るような形で利己主義的に行動しかねない。頭のいいやつがそんなに多いとは思えないし、将来は堅実な行動を取るにしても、頭が良くなるまで野放しっていうのもマズい。だから、なぜそう行動すべきかなんて理由は度外視してでも、宗教的だろうと何だろうと道徳を教え込むのは重要だと思う。
それも一回限りではなく連続したやつ。
金と同時に、暇を得ることも非常に重要だと思う。
平均的な比率がどうあるべきかはわからないけれど。
追記:
社会は互恵的利他主義で成り立ってる。ちょっと考えれば誰でもこういう結論に辿り着くだろうけど、普段は誰も考えもしないし、意識もしない。道徳による利他主義を教えず、利益至上主義を教え込めば、頭のいいやつは互恵的利他主義を考慮して行動するだろうけれど、頭の悪いやつは目先の利益に囚われて(最終的には損になることにも考え及ばずに)他者を踏み躙るような形で利己主義的に行動しかねない。頭のいいやつがそんなに多いとは思えないし、将来は堅実な行動を取るにしても、頭が良くなるまで野放しっていうのもマズい。だから、なぜそう行動すべきかなんて理由は度外視してでも、宗教的だろうと何だろうと道徳を教え込むのは重要だと思う。
それでも損得。
自分の損となる相手を切り捨てられるかっていったらそうでもなく
その苦労を引き受けてしまう。
のは、切り捨てることによって別の損益を蒙る可能性があるから。
人間みたいな利他的行動を示す生物の場合、裏切られたとき、裏切った相手に対して非友好的に振る舞ったり、場合によっては敵対視することがあるけれど、これはけっこう大きな損益になる。裏切り行動を見聞きした人々も同様に冷たく当たるだろうから、損益は個人対個人の関係を超えて大きなものになる。
更に、人間くらいになってくると教育なんかの影響が極めて強いだろうから、互恵的利他主義を促進するために(そしてその他の様々な目的のために)一種の洗脳ともいえるさまざまな感情を植え付けられる。たとえば「罪」なんて感情。「あなたの良心は……」って使い古された言葉だけれど。ガチガチの合理主義者でもなければこの影響を乗り越えるのは難しいんじゃないかな。これは精神的な意味で追加のペナルティを与える効果があると思う。
ついでながら、洗脳って書くと悪そうなイメージがあるけれど、悪いとは思ってないよ。特殊な場合を除いて、罪の意識とかの感情的な抑制であっても、将来を見据えた上では意外にも利益をもたらだろうから。おそらく、(未来にわたる見通しが必要で考察の難しい)合理的判断の単純明瞭な一般解を教えてくれているんではないかなと。
あと、例の場合だと、結婚相手=配偶者は(財産目当てとかの特別な理由が無い限り、わざわざ嫌いな人と婚姻結んだりはしないだろうから)可能な範囲で理想的な異性だろうし、失ってしまうのは利己的に見てもかなりの痛手だ。少なくとも生殖的に、恐らくは精神的にも。現在の社会では金はほぼ万能な(全能ではない)兌換券として機能しているけど、それ自体に何らかの実用的価値があるわけでもないし、ここで投資するのは有意義なんじゃないかな。
http://anond.hatelabo.jp/20061231032609
ねーねー、ESSの略称じゃないやつを挙げてもらえない?
いいや、自分でうpするぜ!
(ESS = Evolutionarily Stable Strategy:進化的に安定な戦略)
引用はとりあえず→から。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%AD%A6
つまりESS理論によれば、利己的行動を選択する個体が増えても集団に不利益が発生し、また利他的行動を選択する個体が増えても、自身の不利益による集団内での損耗が発生するため、利己的行動を取る個体と利他的行動を取る個体は安定するという。
また社会集団を形成している生物(人間も含む)では、各個体は無意識のうちにこれらの利益マトリックスにのっとり、自身が利己的行動か利他的行動を取るかを選択していると論じている。
結局のところ、各個体の利己的行動も利他的行動も、その個体の属する群の利益ではなく、個々の遺伝子にとっての利己的行動であり、それらがそれぞれの戦略を取り、その結果としてその種の行動が決まってゆくわけである。
(以上、うぃきから抜粋引用)
ESSを前提として導入するか、否定するのかによって、社会学や心理学やジェンダー論とかに対峙する姿勢は相当違ってくると思う。