はてなキーワード: 伝統とは
いや、単に酔っ払いに対して正しい行いをしてもしかたないと思ったんだろう。
日本は昔からこういう場当たり的な解決方法をとってきた。
毅然とした解決は好まれない風土がある。
警官というのは非常に保守的な職種だから、伝統に従っただけだろう。
(もちろんこれは悪しき伝統だが)
詳しくは「逝きし世の面影」参照のこと。
人の作品をベース(踏台)にして、新しい作品を築き上げる。その行為自体は芸術活動でも幾度となく行われ続けた伝統的な手法である。先人の作品を模倣しながら自分の表現を磨いていくのである。
しかし、デジタル機器とそれらをつなぐネットワークの発達により、公開した作品は瞬く間にコピーが出回る。自分が書いた本も映画が売れることなくコピーだけが世界中にバラまかれるようになる。さらには自分の作品のパロディやインスパイヤと呼ばれる作品が、二次創作者たちの懐を温めていく。
(この記事はパクりや二次創作に対する怨念だけを取り集めているので、いささかバランスに欠けていますが、一種のバラエティとでも思って頂ければ幸いです。)
そうして没落していくプログラマ達を尻目に、次々と使えるものは使い、権利的に怪しいものはこっそりと使う人達。
「人のものは俺たちのもの。どんな作品も一度買ったらコピーしてネットに流出。俺たちは人類の役に立っている。店頭に並べても見向きもされないような商品を世間に認知させている。金の無い奴にも良質な作品に触れる機会を与えている。そして何よりも、良質なコンテンツを自由に利用することによって、さらに面白いコンテンツ作り(コンテンツ市場の発展)が一層加速する。」
確かに私の作品はつまらないかもしれない。私より優れた作品を作る人はゴマンと居るし、ジャスラックがいくら著作権料を取り立てても、著作権者に還元されていないという噂も聞いている。だからといって、ジャスラックが居なければ著作権者に喜んで金を払うのか?よく目に見える部分だけ作って浮かれている連中は、基盤となる作品群やライブラリ、システムを築いてきた人達に何をどれだけ還元したというのだ。結局はパクりを良とする連中のアフィリエイトが潤っているだけじゃないのか。
オープンソースだの、Web2.0だの、リンクフリーなどを謳う連中は結局のところ、作り手の意欲につけこんで、良質な作品を安く買い叩こうとする動きに加担しているのではないのか。
著作権延長したところで、売れない私の作品からの印税は増えないだろう。そもそも死んだ後にまで著作権があっても私はうれしくない。家族に印税が入るとも思わない。だからといって、あからさまなパクりで潤っている連中を私は妬む。
「音がバンド名」とかもあるよ(テレコのヘッド部分を改造したもので磁気テープを擦って出る「キュキュキュキュ」という音がバンド名。本来は表記不能)。
あとは「___*」(ていへん)とか。□□□のおかげで記号系は周知された感はあるが。
あと最近のアンダーグラウンド系に多いのは文章ネタ。「水中、それは苦しい」を筆頭に「巨人ゆえにデカイ」とか「俺はこんなもんじゃない」とか。スカムの伝統か。
「モノノ怪」知らなかった。面白い絵だなあ。
ベタ塗りじゃないテクスチャで見せるのは、ちょっと前の「巌窟王」を思い出すね。
デジタル化されるまでのアニメは使える色の種類が限られていたから、「どんな色でも使えます」になってもまだ作り手の側が持て余しているのかもしれない。
最近の影のないアニメといえば「時をかける少女」。これは動画に影をつけていない。
代わりに動きをよくして、濃密な背景の中でキャラクターの絵が浮かないようにしている。
そういうのも(たまには)ありますよーって話。
作り手にはいろいろ工夫してみてほしいけれど、あえて伝統的な手法を使うこともあるだろうし、見慣れた手法だと見る側が安心するとかもあるのかもしれませんね。
250 :名無しさん:05/03/12 13:47:39 0
□難関私立大学 最新格付け 2005□
1位 : 慶応大・・・偏差値・就職・資格など、「自称」だけど私学No1。
2位 : 早稲田・・・私学でトップクラスだが、色々「下品」な話題が挙がる。スーフリ大学w
3位 : 上智大・・・受験界では「早慶上智」と言われるが、マーチに越される(た?)予兆あり。
4位 : 明治大・・・校舎も新築し、就職・資格・偏差値のバランスが良い。「早慶明治」を狙う御茶ノ水大学。
5位 : 同志社・・・関西私大の雄を自認するが、最近では「振り向けばリッツ」の焦りあり。マーチ上位級。
6位 : 立教大・・・マスコミなどに強く、校舎も好評故に、2005年度もなんとかマーチ上位を確保。
7位 : 法政大・・・「改革・躍進」を推し進め、イメージ・偏差値も急上昇。人種の坩堝的な大学。
8位 : 立命館・・・「偏差値操作」で悪評高くも、受験生急増。関西私大トップを目指す。自称「命>同」。
9位 : 中央大・・・「伝統の法学部」で「法学部」は上智に並ぶが、他学部に不調感あり。実績はある。
10位 : 学習院・・・「皇室御用達」だが、それしか誇れるものは無く、「マーチ未満」との評価の小規模学校。
11位 : 青学大・・・女子高校生(限定)に絶大な「ブランド」を誇るが、実績は乏しい。「青学スタンダード」。
12位 : 関学大・・・最近凋落著しく、人気は関西限定。首都圏では「西の関東学院」とも…
13位 : 関西大・・・「法科の関大」でそれなりに評価が高い。「難関私大最後の牙城」。 依然人気は高い。
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その他
セリフにセリフが被る演出ってほとんど見たことがいないんだけど
何でやらないの?やれないの?伝統?
エヴァンゲリオンの発令所のシーンで、ゲンドウのセリフの後ろでオペレーターの声が聞こえる、みたいに全く関係ないセリフがバックに流ることは少なくありませんが、確かに、相手を遮るような形でセリフを重ねて言い合いをするような演出は、あまり見られません。
これは、海外ドラマなどではよくある演出なのですが、日本人の国民性なのかなんなのか、どうも台本にしてしまうと相手の発言が終わるのを、行儀よくまっているようなやり取りが多い気がします。
最近の作品では、海外ドラマの演出を意識して作られているGONZOの『RED GARDEN』で、4人のヒロインが好き勝手に喋ったり、言い争ったりとセリフが交錯する演習が取り入れられていました。絵にセリフをあわせるアフレコではなく、セリフを先に収録するプレスコという方式で制作されたこのアニメは、ヒット作とはいえませんが、演出の可能性を提示した隠れた意欲作といえるでしょう。
続編となるOVA『デッドガールズ』もでているので、興味がある方はぜひ。
日本において哲学は「純粋な学問」として独立していない、というハナシがあった。
日本において哲学は、○○についての「道」という形で、必ず具体的なものとの連関で語られるということ。そう考えると日本にはあまりにもユニークな哲学者が多すぎるとも言える。柔道剣道武士道合気道茶道華道書道漫画道オタク道……全部その中には「哲学」が一体のものとして内包されている。
だから「日本には『代表的な哲学者』はいない」というのが答えになると思うけど、それは「哲学がない」というのとはちょっと違う。うちの町内には「おにぎり屋」がない、というのと、うちの町内には「おにぎり」が売っていない、というのはイコールではない。コンビニがあるじゃん、みたいな。あまりいい喩えじゃないけどな。
なんでそうなのかというと、日本の思想は伝統的に一元論的な思考法を取るから、たとえば「現実と理想」をわけて理想のみを語るということをしてこなかったんだよ。必ず現実『のなかに』理想がある、という思想法をしてきたわけ。だから、理想を語る『ために』現実を語るという方法でしか理想を語ってこなかった、ということ。だから、上のたとえを見て「コンビニのおにぎりはおにぎり屋のおにぎりに劣るじゃん」という風に考えるのでなく、両者は別物と考えた方がいいと思うんだ。
当通信講座は長年にわたる伝統と格式を重んじながらも、常に新しい風を取り込むことで次代を担う優秀な人材を社会に排出し続けてきました。最新の設備、優秀な講師陣を交え、日本においても一、二を争う学府として他校にひけをとらぬよう、私どもスタッフは日々精進を重ねてまいりました。願わくば、社会の次なる担い手として活気あふれる皆様が当通信講座に集い、各人との切磋琢磨によるさらなる飛躍のための一助となれたら幸いと存じます。
当通信講座を受講なされますと、学士号及び、受講された学科に関連する各種資格を取得することができます。また希望者は修士、博士号の取得も可能です。当通信講座を受講するためには別紙の申込用紙に必要事項を記入の上、以下の講座に500万円を振り込んでください。
や、そうじゃなくって、
複数のスタンダードが重なり合わざるを得ない現代って、大変だな。
みたいな気持ちを込めて書いたの。
田舎の人が都市部に出たり田舎が都市化したり、もうそういうのは止められようもないじゃん。
だから各人が各人の伝統やら規範やらを押し付けあうんじゃなくて、「自分の考えるスタンダードは特殊なものだ」って考えるようになったらいいのになーって。
まあ、こういう考え方も一つの奇習だったりするんだけどね。
http://anond.hatelabo.jp/20070831114440
田舎は相互に知り合いだから情報が蓄積されて行く。確かにそのせいでプライバシーが無くなる面はある。お互い知り合いだから当然。大学なり高校なりのクラスメイトだけで街を構成すると想像すれば分かるだろう。コンビニでエロ本すら買えない。それは意図的なプライバシー観察ではなくて、知り合いだから無意識に記憶されてしまうだけ。
で、そのメリットが、相互無関心状態に陥らないので、犯罪抑止力として働くということ。全く知らない他人に注意することの出来る人間はほとんどいないが、知り合いに意見することの出来る人間は幾らでもいる。見知らぬ人が歩いていたら警戒心が出るというのも効用。知り合いしかいない中に見慣れない人間が出たら当然警戒する。それが犯罪抑止力として働く。
お互いを警戒してプライバシーを守る為に引きこもって、それが犯罪を容易にしてるっていうんだから皮肉ではある。
通り魔的な例のhttp://www.asahi.com/national/update/0831/NGY200708300012.htmlみたいな事件は、都会だからこそ起こりうるとも言える。ま、最近は田舎っつっても隣人との付き合いがほとんどなくなった街ばかりで、もう本当に村レベルの田舎でしか上記の利点は享受出来ないと思うが。俺の田舎にはハロウィンみたいなイベントで、知らない民家を尋ねてお菓子を貰い歩くっていう古き良き伝統がある。こういうのが隣人同士のつながりを強め、犯罪抑止力として働く…のだが、これ自体が犯罪を誘発する(そのまま誘拐される)とか騒ぐアホどもが潰そうとしてる。不潔だとかいって砂場を封鎖したり、使わないときは青シートを被せさせて逆に雑菌の繁殖を誘発することを要求してる低脳達。砂漠のように直射日光を浴びてカラカラに乾いた砂にはほとんど菌ですら繁殖出来ないのにね。
和歌の伝統に「本歌取り」(もとの作品のエッセンスを踏まえた上で、それをパロディ化したもの)ってのがあるのを、知らないね?
ちなみにアメリカやフランスでは、法律でちゃんと「パロディ」に関しての定義をしているし、ゆえにパロディは「海賊版」などでは無い、との認識で一致してます。「フェアユース」って言葉に聞き覚えは? まさにそれですよ。
とか
ってだけじゃ説明になってない
とかくなんでも「アメリカじゃ常識ですよ?」などといえばそれで終わった気になってる人が多いけど「アメリカで常識なら絶対に常識」なわけじゃないんだ。アメリカで正しいとされているのはこういう理由があるからで、自分はその理由は真っ当だと思う、というきり口ならわかるけど、ただ有名な、権威あるものを掲げて、「日本の文化である和歌様が認めてらっしゃるから」「欧米様がたが認めてらっしゃるから」オッケーなんですって理由になってねー。そんなこと言っても相手からすると「じゃあ、その和歌とかアメリカとかフランスが、間違ってるんだろ(俺の考えからすると)」となるだけだ。アメリカ様がそうおっしゃってるからってのは、全く意見になってないと思うんだよな。
子供の頃に、自由帳やチラシの裏に自分の好きなキャラクターを書いて、親に自慢した記憶があると思います。
それを大人になってもやっているわけで、大人の知識が付いているから、エロな方向に妄想が膨らんでしまう。
そのままそれを漫画調にして、本を作ってしまった。自分の妄想を同じ趣味の友人に見せたい!という方向に進む。
しかし、本を印刷するのにもお金がかかるだから実費をもらってみんなに配るそう言う流れなのかな?と思う。
あのさー、男として言わせてもらえれば、古めの作品で言うならメーテルやセイラさんにラムちゃんといったキャラクターの「塗れ場」だとか、そういうシーンを想像・妄想する事ってのは、誰しもあるもんだよ。嘘だと思ったら、近所の男性数人ほどに聞いてみ?(そしてそれは、「やおい」でのいわゆる「カップリング妄想」でも、自己の妄想を勝手に投影しているという点では同じ)
ちなみに、元ネタであるドラえもんの中でなぜか頻出している「しずかちゃんのお風呂シーン」に関しては、大半の男子は劣情は湧かないけどね(^^;
あと、最近オタク系の掲示板で『誰それは俺の嫁』って言い回しがネタとして存在するのも、「あのキャラクターは、俺の彼女にこそふさわしいのだ」って願望は、その作品に触れて親しみを持つ男子なら、規模の大小は違えど持つ感情であるからこそ、オタ同士での共通認識というか“掛け合い”の中に出てくる言葉なわけ。そもそもこういった妄想ってのは、背景としての作品世界にどっぷり親しんでなきゃ出てこない発想だし、そういう意味では「作品に対する一定の敬意」は持ってるもんだ。
基本的にパロディ物の同人誌はエロだろうが、ギャグだろうが、ダメなんですよ。
まず、書いたものや作ったオリジナルなものには著作権がある事を教える事が重要だと自分は思います。
それが出来ないから海賊版とかそう言う物が出回るわけです。
残念ながら、これはハズレ。和歌の伝統に「本歌取り」(もとの作品のエッセンスを踏まえた上で、それをパロディ化したもの)ってのがあるのを、知らないね?
ちなみにアメリカやフランスでは、法律でちゃんと「パロディ」に関しての定義をしているし、ゆえにパロディは「海賊版」などでは無い、との認識で一致してます。「フェアユース」って言葉に聞き覚えは? まさにそれですよ。
まあ増田であーだこーだと言い合うよりは、地方ごとで開催されてる即売会に、実際に足を運んでみたら? 基本的には土日祝の開催だし、ジャンルごとにいろいろな会があるし、情報はネットで探せばすぐに見つかるし。自分も、コミケにこそ参加した事は無いものの、地方の小規模な即売会には何度かふらっと足を踏み入れた事があります。もちろん、「完全オリジナル作品」オンリーの即売会も、けっこうありますよ。
某ブロガーの口癖に気がついた。この人、結構憶測でものを言って、そのくせ自分の希望的観測を混ぜてるので論旨があまり論理的でなくって、その辺が実は内心後ろめたくって、自分で自分の言葉に確信が持てないことの裏返しなのかと思うけれども、やたら
??ていう感じですかね。
で語尾を〆る。誰に同意を求めているのか、「感じ」という単語を挟んで曖昧に自分を許容してもらいたがっているのか、こういうのも集団思考のツールのひとつなんだと思う。みんなを自分にとって好ましい「空気」に取り込みたい、その「空気」を誘導したい、そして自分もその「空気」に属したい、自分の考えというものがなくて、だからそれを確固とした主張として展開する意志もなく、みんなで当たり障りがない所に落ち着きましょう、とコーディネートしようというのか仲介しようというのか、とにかくまず、党派的に同調したい。身内で連帯したい。そういう意図があって、各関係者の言い分を予めマッピングして、「今日の自分はとりあえずこのポジショニングで話してみようかと思います。本気だとは限りませんからほどほどに読んでね」と保険をかけないと不安なのか。
さて、話を変えるが、あるいはつながっている可能性もあるが、
サヨク的な人って、「自分はサヨクじゃない」と言いながら、傍から見たらしっかりサヨク的市民運動の行動文法の伝統を受け継いで党派的に動いて情報操作に精を出すようなのはなんでだろう、と思っていたが、これはどうも、まず信条的にその人がサヨクでそれを実現するにあたって後からそういう行動をとるんじゃなくって、なにより先にリベラルぶって自分を良心的であるとか正義であるとか思いたい、自己愛を満たしたい、そのためには情報操作も、印象操作も辞さず、ボロが出るまでは突っ走ります、知り合いはかばいます、ダブスタも使います、そういう人が左に流れていきやすいという面もあるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20070818135658
http://anond.hatelabo.jp/20070818141853
旧来型の貧乏
・自分が住んでいる地域とか、血縁とか、性別なんかで貧乏かどうかが決まっちゃう貧乏。
生まれたときから親兄弟親戚近所一同皆負けてます、みたいなもの。
部落とか、母子家庭とか、田舎に住んでいるかとか。生来的なもので決まっちゃう。
あとインフラ格差の解消とか。下水道ありません、とか、電車通ってません、近所に病院ありません、とか。
その解決の道具がお金(土木系公共事業・ばら撒き行政)と教育。
田舎や貧乏人の子供は家の手伝いで小学校までしか行かせてもらえなかった分、就ける職業も限られてた。そのために夜間中学なんてあったし。女が学問するなんて!って驚かれた時代。
でも、昔は学歴小学校卒非モテニートでも親の家業や農業を継げばよかったし、自分の家のクラスや住んでいる地域に合わせて勝手に決められた見合いで結婚できた。後天的なコミュニケーション能力不足なんて関係ない。とにかく家の面子を守ることと嫁という労働者が欲しいということ。離婚なんてタブー。嫁が子供が産めないという理由で離縁されることはあった。そこに職業選択の自由と結婚の自由はないけど。
それと長男は親との同居が当たり前。女は姑と同居が当たり前。介護に嫌気が差して座敷老人なんて問題もあった。
『ALWAYS三丁目の夕日』みたいな貧乏があっても皆幸せだったのは、『皆いっしょ』に貧乏で皆一緒に豊かになろうとがんばっていたから。
新しい貧乏
・『中流家庭』に育ったはずなのに、ある日突然貧乏。またはいつのまにか貧乏。
生まれたときは一応中流(中の上、中の中、中の下)だったけど、いつの間にか自分ひとり負けてましたもう這い上がれません、みたいなもの。
雇用の流動化、核家族化、少子高齢化、消費社会化による行き過ぎた個人主義、グローバリゼーションと自己責任。
ばら撒きしようにも、今の家族の単位が小さくなりすぎた結果(中年独身男女も含む)、ばら撒く家族が増えてしまったことと、独居老人が多すぎることで、ばら撒けるお金に限界が見えた。
だから、国に頼る前にもっと皆繋がってください、支えあってください、自分の人生自己責任でということになる。
繋がれないと、老人孤独死。中年はへたすりゃ自殺。自殺率最悪。職のコネがないローン抱えた中年の親父が自殺。息子勉強して大学行ってサラリーマンになっても、同じサラリーマンの親自殺。自分の職業、労働単価の安い海外に外注で自分の職がなくなっちゃうかも。自分の職がいつ職業ごとなくなるかわからない。学問よりもコミュ能力。英語だのファシリテーションだのコーチングだの。
ニートの親はサラリーマン。自分が継げる先代から脈々と続く家業なんてない。地域社会の商店は大型ショッピングモールが出来てからボロボロ。工場は単価の安い中国に出ちゃった。農業は、海外から輸入作物の価格に影響されて、国内農作物の価格が安くなりすぎるもんで、補助金に頼らないと生活できない。でも国は地方にばら撒ける金もうないよ。
それと、昔は正社員の職しかなかったけど、今は契約社員とか、派遣とか、バイトとか、いつ首切られて孤立するかわからない立場の職ばっか。フリータになりやすい。雇用が流動化して職場すぐ変るから人間関係も不安定。山谷とか釜が崎とかに集っていた日雇い労働者も高齢化。若い日雇い労働者はネカフェの個室に一人きり。
こういうときに必要なのは、お金ばら撒きや職業教育よりも、人とのゆるい繋がり(コネ)と根拠なき自信。一旦繋がりが切れると対人関係の自信もなくなって二度と繋がれない。皆問題抱えためんどくさい他人と付き合いたくない。昔は地縁や血縁で面倒くさくても嫌々人と繋がってたけど。それで、格差っていうのは世間にある幸せコミュニティには自分は二度と入れないんだっていう絶望みたいなもの。ちがう?うーん、どうなろう?
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/06/h0628-1a.html
で、家族っていうのは相互扶助社会の最小単位。昔は伝統や世間体を理由にして嫌でも家族と付き合う、っていう前提があった(その代わり家族の中でどんなドロドロが起こっているかわからない。嫁姑問題とか親から子への体罰とか当たり前。貧乏な家の子供は小さな大人であり労働力なので、ひっぱたいてでも働かせる。中流以上の家庭の子供は、親の面子そのものであり大事な家を支える跡取りだから、親の敷いたレールからちょっとでも外れたら親とドロドロの喧嘩)。
そういう前提が日本が消費社会化するにつれて変った。まず、日本の住宅に団地というものが登場して、核家族が爆発的に増えた。核家族っていうのは1970年代のアメリカンホームドラマを模倣したもの。家電製品に囲まれた消費社会的な家族の始まり。そこから消費社会的な自由が進行して、お父さん仕事とオタク趣味、お母さんも仕事と女友達とお買い物、子供はモバゲーで皆バラバラな家族の出来上がり。一人に一台携帯電話持ってるから話したい人と話せる一方で、話したくない人とは絶対に話さないということも出来る。最近の家族はLDKの持ち家やマンションに一人一室の個室を割り振られて住んでるし。昔ながらの障子や襖で仕切られているだけのプライバシーの無い部屋なんてありえない。だから皆付き合いたくない人とは絶対に付き合わない。付き合っても嫌なものは見ない。というか無関心。でも、おばあちゃん、おじいちゃんはどこ行った?親に事情のある子供だって、昔は親戚に養子に出されたのに今は施設直行。
そんな人付き合いの伝統や義務が無くなって人間関係が流動化した時代に、一旦自信の無さの塊になって、人付き合いに自信がなくなるとあっという間に孤立。行政はお金が無く、制度は家族の相互扶助の前提を崩そうとしないのに、「家族が嫌いでも、それでもやっぱり家族なのだから支えあうのは当たり前」という大義名分を主張することが、消費社会的な自由を阻害しているということを皆直感的にわかっているから中々主張できない。そして地縁、血縁、義理や情などで、面倒くさいんだけど義務的に構ってくれる人はどんどん少なくなり、他人の無関心に囲まれて消えるように自殺する。
これから日本人は、縁に縛られて毎日同じ他人といがみ合う苦しみと、生まれたときから将来が見えてしまっている不条理と共に生きることを選ぶのか。それとも、縁から自由になりすぎて高速で自分の前を通り過ぎる周りに無関心になるむなしさと、不安定な将来への漠然とした不安と共に生きることを選ぶのか。今の時代はそれらの選択の分岐点なのか、それとも折衷の機会なのか。国が行うシスティマティックなばら撒き福祉が大事なのは当たり前。けれどもそれだけじゃなくて、自分が嫌いな人や嫌いな世代に対しても、関心を持って扶助しあうような相互扶助社会も必要なはずなのにね。皆自分のことだけを大事にして生きてきたわけでは必ずしもなく、お互いに面倒くさいことを求めない、嫌なことはしなくていい、貴方は自由に生きていい、という優しさと気遣いを持って生きてきただけなのに。
だから格差社会っていうのは、世代間や地縁血縁の相互扶助と承認が機能しなくなった、今の核家族・孤立家族といった家族社会の拡大版だと思う。
寿司屋や大工にはある種の権威ちゅーか、格や伝統、歴史があるけれども、WEB業界ってのは歴史も浅く、できたばっかりで伝統や格みたいなもんがない。
伝統や格より、歴史があるものは部外者でも仕事の中身がなんとなくわかるから、じゃないかな。
http://anond.hatelabo.jp/20070811003645
大抵の人にはこれが無茶だってわかると思うけど、
IT業界だと本気でこのレベルの無茶を要求してくる人がいるんだよな。
どれだけ無茶か説明してやると逆ギレするってのは、
またパソコンやITというものになんとなく「若いもんが楽して金儲けしてる」「なんか知らんけどこの分野よくわかんねー、若いモンにいばれねー」というオッサンの意識がある。
からかも知れんけど。
寿司屋や大工にはある種の権威ちゅーか、格や伝統、歴史があるけれども、WEB業界ってのは歴史も浅く、できたばっかりで伝統や格みたいなもんがない。
寿司屋や大工の職人はある程度年がいってるけれども、WEB業界は若いモンが多く、かといって客は若いもんだけじゃなくオッサンもいる
またパソコンやITというものになんとなく「若いもんが楽して金儲けしてる」「なんか知らんけどこの分野よくわかんねー、若いモンにいばれねー」というオッサンの意識がある。
これらの要素が絡まりあってそういう客が出てきやすい
のかな
靖国参拝問題について以前から疑問なのは、そもそもどうして戦争責任やら内政干渉やらといったことが主題になるのか、ということだったりする。だって、(乱暴な言い方をしてしまえば)善人だろうが悪人だろうが死んだら等しく一柱の神になるというのが日本古来の宗教観でしょう。自覚的にしろ無意識にしろ、そうやって日本人は祖先を祭ってきた。仏教やキリスト教の伝来とともに流入してきた天国や地獄の概念さえ、そのアニミズム的な死生観と混ざり合い、和風のカレーライスのようにマイルドになってしまった。死者はみな尊い――ここで「戦犯かどうか」などという些細な属性は無に帰す。
参拝に反対しない人々の心情としては、戦争に関して本当に責任がないって信じているとか国家のために戦った英雄だと考えているとかそういうこと以前に、単純に「既に死んでしまった祖先の墓を掘り起こすような真似はちょっと……」という感覚があるんじゃないかな。賛成も反対もない。つまり、問題はそうした宗教観の相違にあるわけで、大陸流の骨太の死生観を持つ人たちにどうやって有耶無耶の美徳を伝えれば良いのかという点を議論しないでいったい何を議論するというのか、と思う。日本が国粋主義に向かっているとか中韓が自国の政治問題を隠すために反日感情を煽っているとか、そんな表層の議題は取り上げれば取り上げるほど問題の本質から遠ざかる。
単なる国際政治や歴史認識の問題じゃない。これは宗教間の対立なのです。宗教戦争の経験のない日本は、はたしてこの問題に上手く対処できるんだろうか(というか、そもそも円満に解決した宗教問題って人類史上に存在するのかな?)。8月15日に閣僚がみんな公務で海外へ行っているよ不思議だねー、というのは割と上手い対応に思えるけれど。
「公務としての」靖国参拝にこだわった彼とか彼にしても、パフォーマンスとか権力の誇示を意図したというより「まつりごと(政治)」と「まつりごと(祭事)」を同一視する伝統的精神の影響大な気がしている。国家元首としてそうしないと気持ち悪かったんだろう。でも、それを言っちゃうと政教分離の大原則がピンチになるからね……
わかるよ。
プロスポーツであり、しかも「伝統ある」「国技」の「横綱」たるもの、相撲に対して半端な取り組み方では困るんだよね。
むしろ半端な取り組み方しかできなくなったら横綱をやめなければならない(=力士を辞める。横綱は下に落ちれない)くらい厳しい世界だし。
そういう厳しいレイヤー上の話を、普通の人が生きている生ぬるいレイヤー上で語っても筋が違う。
彼らはまさしく「違う土俵に立っている」し、その土俵にはその土俵のルールがある。
横綱ってあれこれ資格が厳しい代わりに、ものすごく金銭的な見返りが大きい。だからみな横綱になりたがるし、モンゴルから出稼ぎにきてるんだろ。
こうるさいことをガタガタ言われる上での高給であり、それが守れないならサラリー減らすよ(=土俵に立たせない)ってだけのこと。
彼らは自由人ではない。相撲界という会社の社員で、その会社は、上に行けば行くほどものすごく金が手に入るけど、旧態依然とした厳しい会社だったのさ。
実際問題、いくら相撲はそういう世界なの!他の世界とは一線を規してるの!つっても、現代の社会の一部分である限り、影響は受けざるを得ないと思うけどね。元増田のような批判がくるのも当然だし、それを受け止めていくのは伝統を守るもんの義務だな。伝統を守りぬくことこそ、そんなに甘くねーべ。伝統伝統つっても、結局、その伝統だけ孤立して成り立ってるわけじゃないし。日本という基盤があって成り立ってるんだし。ましてや国際化しちゃってさ。逆に、自分達で外国人を受け入れ始めたんだから当然その分変わりうることも覚悟しておけと思うが。そんなすんなりいくわけねーじゃん。常識的に考えて。机上の空論の話じゃなくて実際問題、な。伝統だからつっても人間の首狩り儀式とか日本じゃ絶対無理なように、伝統だからなんでもオッケーってわけじゃない(現実問題として)。その辺、相撲業界といい高野連といい、空気読めよ、と思うね。反発来るに決まってるだろ、っつー。ただでさえ減少の一途を辿ってる伝統なのに、そんな事いってて大丈夫なのか?って感じ。消えそうなのに全然謙虚じゃないw落ちぶれて金もなくなった貴族みたいなんだよな……なんか。伝統守りたいならお前ら、もっと世界の波に媚びといたほうがいいんじゃないの、その伝統伝統!とか言って消えちゃってもしんねーよ?と人事ながら思う