2021-11-11

我々は顔を手にし、lainを失った

Serial experiments lainを見た。今はい時代で、YouTube無料違法に見ずとも、amazon動画サービス課金すれば合法的に観ることができる。全話見終わって、ほぼ大筋しか覚えてなかった自分愕然としたが、やはりlainは良いという気持ちに立ち返って終わった。

lain…好きだ。

精神的な実家に帰るというか、昔よくいた公園に立ち寄ったような快楽があった。

5ちゃんねるが2ちゃんねるで、個人的ホームページがあって、お絵かきbbsがあって、アイコンイラスト写真が使われていない時代facebookの前の時代

アカウント乗っ取りとかの時代ではなく、名前を奪っただけのなりすましに怒ったりなんだりしていた。ブラクラがあり、荒らしがあり、アホみたいな時代といえばアホみたいな時代だった。それでも私にとってはもう懐かしく感じる。

尖ったメンタル求心力に溢れた、若い少年少女はいつも羨ましかった。

自殺した子もいた。大人たちにもてはやされたりしていた。

オタサーの姫というか、俺たちの子供、のような気持ちもあったし、若かった頃の自分のうまくやれなさを子供を通して見ていたような気もする。

私はそちら側になれなかった、と言うには、私は大人になりすぎてしまった。

昔、我々はネットで顔を持たなかった。

今はネットで皆顔をもっている。アカウント現実人間と紐づいた、場所を気にしないコミュニケーション一種の、現実拡張になってしまった。

ネット気持ちの悪い薄暗い路地裏では無くなってしまった。

顔のなかったころ、我々はそこにいて黙って聞いていても、なんらおかしくなかったけれど、

肉体を持ってその場で黙って聞いていることは、開かれた場所では許されないこともある。

電球に照らされた時、私は自分があまりにも何もなく、「あんなふうになりたいしきっとなれる」から「こんなにも何もできない」ことに頬を殴られた。

我々は顔を持つことで区切られたのか?

lainあなたを見ることで私もあなたの信奉者として、あなたの影として、あなたを作る幻想の一つを構成するものとして、一つの偉大な幻想構成物として、自分をも信奉していたよ。

顔を照らされた私は自分が恥ずかしいよ、lain.

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん