大学生の頃、教職課程の介護実習でデイサービスセンターに5日間お世話になったことがある。そのとき90歳も越えようかというあるおばあちゃんと色々とお話したことが今でも印象に残ってる。そのおばあちゃんは僕の顔を見ると毎日口癖のように「今あなたが生きてるのは親のおかげなんやから親に感謝しなあかんで」と言っていた。僕自身恵まれた家庭環境で育ったわけではないし、何より哲学という捻くれた学問を多少なりともかじっていたこともあって、彼女の言葉を素直に受け取ることができなかった。「いやいや、『存在』の原因の話をするなら第一原因にまで遡るべきだし、神ならまだしも何で親で遡及を止める必要があるんだ」とか思っていた。哲学を少しでもかじったことのある人間は基本的に、肯定するにせよ否定するにせよ、いま・ここという仮象の世界と、そうではない真実の世界という二元論を前提として持っている。そして得てして二元論を持つ自分は一元論に留まる大衆よりも正しい仕方で豊かに世界を認識していると思いこんでしまう。もちろん自分もその例外ではなかった。おばあちゃんの説教はとても素朴な一元論の立場からの言葉にしか聞こえなかったし、そこに道徳的、政治的なある種の危うさすら感じた。そして実際そういう側面はあったのだろうと思う。けれどもおばあちゃんを不快に感じたことは一度もなかった。一人で起き上がることすら出来ないほとんど骨と皮だけになったしわしわのおばあちゃんを見ていると、その言葉が実際のところ何に規定されているのであれ、少なくとも一世紀近く生きてきた中で彼女自身が確信してきた信念から出てきた言葉なのだということを感じた。だからと言ってその人生哲学だか生活哲学を無批判的に受容すべき理由にはならないのだが、そうなのだが、あのおばあちゃんをイドラに囚われた啓蒙すべき人間としか見なさないような哲学に豊かさはあるのかと強く思う。