2021-06-20

幸せ定義できなくなった話

まえがき

最近優秀であることを目指した先に何があるのか自分には何も見えなくなってしまった。

ここまでは皆が耳にタコができるほどよく聞いた話だと思う。でも吐き出す場所が欲しくて書いてみた。

ただ自分場合上位互換がいるせいで自己肯定感がなくなってしまい、メンタルがやられた、とかそういう話ではない。

上位互換という考え自体社会構造雇用形態に囚われてる考えなのではないか、という認識から自分幸せがわからなくなった。

ある意味逃げの思考に見える人もいるかもしれない。

幸せ定義できなくなった

物事事象はただ”ある”だけだが、それに対する社会文化が良い・悪いと言った評価をつけていると考えている。

いや、今改めて考えると事象物事というくくりさえ、広義的に文化的な考えに囚われているのだと思う。

そう考えると、自分幸せはどこに有るのかわからなくなってしまった。

お金をいっぱい得られれば幸せなのか?わからん。人から褒められたら幸せなのか?わからん

例えば生涯趣味も何もなくてお金を使いたい対象が見つからなかったら幸せとは言えないと思うし、当然お金ですべての幸せが手に入れられるわけではない。

人生にも物事のものにも意味はなくただあるだけであり、自分が楽しくて満足できればなんでもいいと思っている。要するに楽しんだもんがちということ。もしくは不満や不幸を感じないのも幸せと言えるかもしれない。極悪犯罪者だったとしても、それが社会的にどんなものであれ幸福を感じたり納得できるのであれば、空虚な人の人生よりよいものだと思う。

幸せが分からなくなった

上までが思考の背景で、ここからが困りごとというか本題だ。

自分幸せ自分ででしか定義できないというのが私の気持ちだが、それによって幸せや生きるモチベーションを見失ってしまった。

まり中途半端主観を重視する観点を得たことで、客観的社会的な要素が組み込まれ幸せに頼れなくなってしまった。

今までは優秀になっていっぱい稼げればとりあえず幸せになるだろう、みたいなふわふわした感じで、社会的な要素が自分主観的な幸せに入っていたことに気づいて居なかった。

しかしそれに気づいてしまった私は、幸せになるために以下のいずれかをしなければならない。

1. 今後社会的な要素に頼らず自分自身の幸せ定義する

2. 自分幸せに再び社会的な要素が組み込まれている状態認識しなくなる

3. ここまでの思考の背景を改める

昔は理解できなかったが、”自分探しのたびに出る”人は1番を解決したくて、旅に出ているのだと理解してる。もし解釈違いだったら教えて欲しい。ちなみに自分も1番で解決したい。ということで幸せがわからなくなってしまって、何のために生きたらいいかから現在とても虚無という現状をまとめた記事が以上。主観には社会性が含まれしまっているので、自分の心の”衝動”に今後耳を傾けていきたい。今の所全然聞こえないけど。

スピリチュアルなことを書いてるとよくわからなくなってくるので、怪文書になってたらごめんなさい。

さいごに

最後あなた幸せは何なのか、なぜそれが幸せなのか。

参考にするためにも是非教えてほしい。

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