今や映画など、「映像作品」のうちの「2時間前後のもの」でしかなく、スマホから見ようがテレビで見ようが映画館で観ようが開くデバイスが違うだけで「同じもの」というのが若い世代の感覚だ。
映画評論家と名乗る人が、万引き家族も評論すれば、アナと雪の女王についても語る、というのはおかしなものだ。消費者からすれば、両者には「長い」ぐらいの共通点しかない。
勿論、製作チーム、配給会社、スポンサー達からすれば「映画」は「映画」であり、同じカテゴリにあるだろう。
しかし、映画もドラマもアニメも漫画も小説も5分に満たないMVでさえも同じように「物語」とみなしフラットに消費する我々にとっては、「映画」というカテゴリーは大した意味を持たない。
むしろ必要とされるのは、「社会問題を扱った現代が舞台の作品」だとか「家族がテーマの作品」だとか、「子供向けのファンタジー作品」だとか、「誰に向けたどんな話なのか」というカテゴリーである。
映画館は年々減少傾向にある。しかし、ストリーミングサービスの発達によって映画はむしろ、より身近になってきている。映画は「映画館で見るもの」ではなくなってきているのだ。
地方の名座がなくなって……と嘆く声はよく聞くが、映画館というものは映画文化のおまけとしてできた副次的なものでしかない。一家に何台も高画質なディスプレイが存在し、映画サイズのデータを簡単に送受信できる現代にはさほど必要性のない空間だ。
映画館で見るもの→映画、という空間によるカテゴライズももはや意味を失っている。
映画文化に寄生し、映画評論家などと名乗り、映画をやたらと特別扱いして持ち上げてきた人間は、そろそろ時代と共に去っていいのではないだろうか。
町山に自分が原作の実写版映画脚本を担当させることで映画評論家という職業の地位を大幅に低下させることに成功した諫山創という偉人
諫山にあからさまな才能があったことで町山の凡人さが際立ったんだな