じわじわ人気が出ている漫画の最新刊に対して、ウテナじゃんという言及があったらしい。人気作は読むまで他人の感想を避けまくるが、人気が出ていることを知らなかったためうっかり踏んでしまった。寝かせてもどうせ思い出してしまうので、読む。良かった。解釈というか思い入れが全然違うので、さらっと消費している人がそう言うのも分かるし、自分の受けた印象と衝突しなかった。
ちょっと思い入れが強すぎる。昔見たものも今好きなものも。昔のものはあまり他の人の解釈に触れる機会が無かったし、今好きになるものは、エネルギーが低くて本当に好きにならないと好きになれない。どちらももう完全に自分の世界ができているので、他人を入れたくないのだ。インターネットに触れた頃の作品は、他人の多様な解釈も楽しめるのだが。
ほっとしながらも、意識してしまってからはどうにも思い出す。特に分からなかったことこそ何度も思い出す。
玉ねぎ王子が告白昇降室に行ったとき、唯一追い返された。君は、本当にいい人だね、と。彼はデュエリストになれなかった。ならなくて済んだ。特別なことなのに、作中ではそれ以降触れられることもなく、どうしてだろうという気持ちだけが残っていた。
さすがに時が経っているので、不可侵さも減っているようだ。少し前にアンシー=ウテナという解釈に惹かれたのも手伝って、あの台詞の意図を調べたくなった。
見つからない。今や Google は「それ程詳しく無い人がさっと見て分かった気になる」多くの人が求めるページばかりを出し、そんな個人的な解釈は誰も求めていないとして、どれだけページを繰っても表示さえしてくれない。
けれどロボット検索の登場によって衰退した「リンク集」も、もはや多くのサイトには存在しない。サイトと似た趣向、サイト運営者が好ましく思うという得難い情報によるリンクは、もう失われてしまった。
人が、ひとりひとりが何を思うかを見つけられるのがインターネットだった。もう、人気を集めるコンテンツをサジェストされるのみだ。好ましい見解は、好ましい人が所属するコミュニティにどっぷり浸かって人づてに見つけるしかない。既存の情報のように。そしてそういう場所では、「ひょっとしてこういう意見もあるのではないか」と思うような意見からは縁遠くなる。インターネットは影響力は無いが存在するものを見つけられるものだったのに。それは、自分だけじゃないんだという生きる希望にもなったのに。
世界が変わればいい。そう思う私は玉ねぎ王子のようにはなれない。だって世界、変えたい。だってそれはあった。今まで声を発して来なかった人を見つけられるプラットフォームが、かつて存在した。