話題のnikeのCMに関する論争で思ったのは、ああ、アメリカで起こっている「分断」というのは、これが大統領選にまで拡大しているんだな、ということ。
このCMを批判している人の根底にあるのは「自分たちが無視された上に、会ったこともない他者に配慮する責任があると言わんばかりに説教された」という反感である。日本人の大多数が経験している学校の教室や部活の風景は、誰もが自ずと自分の過去の経験と記憶を重ね合わせるものである。その中で強烈で、かつ思い出したくない経験の筆頭こそが、やはり「いじめ」だろう。そうした辛い経験を、あたかもマイノリティだけが経験しているかのようなつくりになっているのを見て、自分たちの体験が否定されている、軽視されているように感じて反発していると理解することができる。
CMを評価しているリベラル派の人たちは、CM批判派を「差別の存在を否定するレイシズム」などと批判し、「マジョリティの特権を揺さぶられて動揺している」などと言う人もいる。はっきり言って的外れである。日本人の大多数が昨日のことのように記憶している学校の教室や部活の経験を、「差別問題」に回収されてしまったことに対する反発として理解されるべきである。それに乗っかったタチの悪いネット右翼が多数いることは確かだけど、そこに問題に本質を見ようとすると完全に誤る。
「学校のいじめはひどかったけど、差別などはなかったと思う」という経験を持つ人に対して、「お前に見えてなかっただけだろ」「それが特権なんだよ、自覚しろ」と頭ごなし言われ、て素直に「わかりました、考えを改めます」というなどという人はいない。自分が過去に経験して感じたことを否定されれば、誰だって怒りの感情が湧いてくるだろう。
最近のリベラル・左派は、貧困問題でも差別問題でも、「敵」がどんな感情を持っている人たちなのかの分析や理解を放棄して、とにかく批判して戦うという方向になってしまっているように感じるが、社会の分断を進めて問題解決から遠ざかるだけだと思う。