2019-12-22

においの記憶とぼくの話

ぼくの好きな人

ぼくの好きな人は先週肺がんで亡くなった

25歳だった

ぼくより3つも下だった

彼女は緑のマルボロを吸っていた

治療中、彼女はずっと「煙草を吸いたい」と言っていた

ぼくは医者としてそれを止めることしかできなかった

ぼくは医者として、患者彼女を止めなければばならなかった

煙草はだめだけど、これならいくらつけていてもいいよ」と、シャネルの5番をプレゼントした

彼女は「全然違う」と笑ったけれど、少しだけ嬉しそうだった

恋人に激しく攻められて嘆くぼくに彼女マルボロの箱を差し出すあの瞬間をぼくはまだ忘れられない

ぼくは喫煙者ではなかったけれど、彼女にもらった煙草フィルターギリギリまで絶対に吸った

それでもぼくは喫煙者にはならなかった

彼女はなんというか奔放なひとで、自分恋人がいようが相手恋人がいようがいまいが、フィーリングで生きていた

でも彼女はぼくに抱かれることはしなかった

ぼくも彼女を抱こうとしなかった

抱こうとしたら終わりな気がして、抱かなかった

ぼくらは綱渡りみたいにして関係を保った

ぼくらはそうして何年かの綱渡りをした

抱かれない彼女と抱かないぼくだった

会話ができる最後状態の日に、ぼくは彼女にきいた

「ぼくが次にプレゼントするのは何がいいと思う?」

彼女は迷わず答えた

ほっともっとチキン南蛮弁当

煙草じゃねえのかよ、とぼくは笑った

「もう煙草はいいの、化粧品香水アクセサリーもいらないの。身につけるのはシャネルの5番だけでいいの」

という彼女の横顔が忘れられない

高い鼻と重たいまぶたが忘れられない

次の日から彼女は口を閉ざした

彼女の中の癌は、脳まで転移していた

ぼくはあの画像を見たくなくて、必死で背けていたけれど、ぼくはぼくである以上に医者であるので、見ないということはできなかった

ガサガサの肺も、ぐちゃぐちゃの脳も、見たくなかった

何より、たまにしか目も開かないような彼女を見たくなくなっていた

それでもぼくは医者であると同時にぼくであったので、彼女には会わなければならなかった

ぼくは彼女に聞こえるかどうかわからないようなボリュームで、聞いた

最後、誰と一緒にいたい?」

彼女は目を開けていた

少し口が動いたような気がしたけれど、聞こえていなかったのかもしれない、なにを言っているのかはさっぱりわからなかった

日に日に彼女は苦しむようになった

最後はあっけなくて、彼女という奔放な命は、雨の日に吸った煙草が水滴で消える時みたいに、ぽつんと消えてしまった

涙も出なかった

好きだったと気付いただけだった

彼女から最後まで、シャネルの5番の匂いがした

煙草匂いはしなかった

誰が彼女シャネルの5番を纏わせていたのか、よくわからないままだった

ある日ぼくはなんとなく緑のマルボロ100円ライターを買った

病院から一番近いコンビニの灰皿の前でビニール剥がし

火をつけて一口吸った

少しだけむせた

最後に吸ったのは彼女肺がんが見つかる2週間前だったか

なんとなく、彼女最後に一緒にいたかった人に思いを馳せた

端的に、ぼくのことをそう思ってくれていたんじゃないかと、そう期待したのだ

違った

あのとき彼女は、ぼくの名前を言っていたんじゃないかと、期待した

ぼくは彼女の口の動きをトレースして、一口吸った

今度はむせなかった

菅田将暉

人気俳優だった

「……ぼくじゃねえのかよ」

隣で電子たばこを吸う女性からは、シャネルの5番のにおいはしなかった

ぼくを訝しむような顔でちらりと見て、彼女は立ち去ってしまった

帰って一箱全部吸って一晩泣いた

ぼくから煙草のにおいしかしなかった

ぼくはシャネルの5番のにおいも忘れてしまった

この話、おしまい

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