悔しかった。
なぜ彼らがジョジョ三部のように「生きづらさ」というDIOを「追いながら闘う」「逃げながら闘う」という連携でやっていく方向に至らなかったのか。
「生きづらさ」をなんとかやってゆく気概は両者の根底にあるのだから、なぜ、連携が図れなかったのか。
また両者方向性は違えど打倒DIOなのは同じなのだから(論敵であれども)お互いに敵ではなく補完し合える関係だという合意が得られなかったのか。
「逃げながら闘う」側のジョセフと花京院が発見したDIOの「スタンド能力」を「追いながら闘う」側の承太郎とポルナレフに伝わることでDIOを倒すことに至る、これがジョジョ三部の結末だ。
「逃げながら闘う」側が、「追いながら闘う」側を補完する。
「学問の徒」が「当事者事業」を補完する、ということを期待したのだ。
だが、現実はDIOを倒す事よりも互いの粗を探すことに終始している(投稿した頃には終わってるといいが)
議論会は当事者の議論の為の場だけではなく興業しての場でもあり、人間を試す場でもあり、両陣営の粗探しに躍起になる人間のための場だった。
ざっくり言うと、緊張しかなかった。
そんな場で「一緒にDIOを倒そう!」なんて合意が取れるはずもなかった。至極当然の結末だ。
だが、悪い事ばかりではなかったかのように思う。特に「逃げながら闘う」側にとっては。当事者運動をやっていく際の大変さが分かったのではないだろうか。彼ら「追いながら闘う」側は出来る事を出来る範囲でやっており、かつその出来る事というのは様々な配慮の上の産物なので、有意義な批判は事業を亢進させることに役立つかもしれないが、そうでない批判は彼らの意思を削ぐ可能性がある、という事を認識できたのではないだろうか。(余談だが某数氏の問題提起の時期と重なって、某サイトの規約等が変更されたということもあり、氏の問題提起は有意義な批判だったかもしれない。)
正直なところ某サイトは生きづらさをを抱える当事者にとっての圧力となり得る要素は薄いと思うし、某数氏が言う某手氏の危険性は当事者に害が及ぶようなものではないと思う。
むしろ両陣営とも規模の大きさは違えど生きづらさを抱える人たちを包摂しうる「運動」をやっているので、その「運動」をそれぞれやっていくことで互いに補完し合う関係になれるのではないか、と思った。
ここまでリーダビリティもない糞拙文だが、これだけは言いたい。
両陣営の某氏たちはDIOの倒し方をそれぞれのやり方でやっており、そのノウハウを世間に開いていたり、実践していたりしている。
それに救われている人は少なくはないはずだ。
私も日々、DIOをどうやって倒すか躍起になっている。
また彼らが今後、ハサミ討ちの形でDIOを倒す可能性に期待したい。
それが叶わなくとも、どうかそれぞれがそれぞれの「運動」をやってDIOを倒そうとして欲しいし、その倒し方を当事者たちに示して欲しいと思っている。
テーマによってはジョジョやドラゴンボールなどの漫画の例えを使うことで分かりやすくなるけど、そもそもの当事者運動の方が説明がないとよく分からないので、全体的に分かりにく...