世の中には、ささいなことを気にしてしまう人と気にならない人がいる。
わたしは前者だ
電車で見知らぬ隣の人と体が密着した状態に置かれると、なんとなく落ち着かず無意識に肩に力がはいる。そしてほとんど微動だにしなくなる。意識のほとんどが隣に座った人間に持ってかれてしまう。そういう人は、けっこういるんじゃないかと思っている。
しかし、それとは対照的に隣に人が座ってきたとしても何も感じることなく、目の前にあるスマートフォンに集中し、隣の人が腕を当ててこようが、カバンをガサゴソとしようが、何も感じないというか気づきすらしないという人もいる。
しかし、おそらく日常生活の中には想像以上にこのような場面が多く存在している。
友人との会話が他人に丸聞こえの状態でも気にせず話せるかどうか。貸したものがなかなか返ってこないときに、「あれ返してよ」と躊躇なく言えるかどうか。店内で遠くにいる友人を大きな声で呼べるかどうか。電車で目の前に人が座ったとに視線の向けどころに困るかどうか。電車での他人の会話にイライラしないかどうか。
確かに一つ一つを見ると、とてもちんけなことのように思える。
しかし、こういったことを日頃から感じながら生きている人と全く感じない人には"生きやすさ"という点で、とても大きな差があるように思える。
この差を作っているのは、やはり幼い頃に両親からもらう自己肯定感の有無なのだと思う。
それを持っている人はその存在、ありがたみを自覚することが少ない。だからこそ、それを持たない人の気持ちを理解している人は少ないように思う。
上に書いた、自己肯定感の低い人が気になってしまう例として挙げた、「電車で隣の人の会話が(ry」や「隣の人の腕が(ry」の原因となっている人達は総じて自己肯定感が高い人なのである。
この問題の辛い点は、この辛さを共有できる人の少なさにあると思う。
こういう辛さを抱えながら生きている人は少数派だと思うし、いたとしても表には出てこない。
そうじゃない相手に理解してもらおうとしても、その理解してくれない相手の反応に心を消耗してしまうなんてことになり得る。
その上で、わたしが今まで生きてきた中で大事だと思うことは、自分がそういう性質を持つことを客観的に認識すること。
こういう性質を持っていることは生きやすさという点において、目に見えない大きなハンデになっている。それがない人と対等に張り合おうとすると当たり前だがものすごく疲れる。
あの人はあんなに人と上手くやれているのに。
それは、あの人が人と関わるときに相手が自分を嫌うことなんてありえないと思えるくらい両親に愛されてきたからであり、あの人は、だからこそ人と関わるときに大してエネルギーを消耗していないからだと思う