2016-09-21

自由にしないことの自由も認めてほしい

とある有志の団体に参加していろいろ活動している。仕事から完全に離れた場だけど、やっていることはそれぞれの仕事にとても近い。プロボノみたいな感じ。組織がそれなりに大きいので、それぞれやるべきことをやらないと対外的にもいろいろ困ったことが起きる、というような環境だと思ってほしい。

どんな団体でもそうだと思うけど、所属している人は大きく二つのタイプに分けられる。自由を重んじるタイプと、規律を重んじるタイプ団体活動趣旨上「自由規律」みたいな雰囲気はあるけど、組織運営規律もまた重要である認識されている(と思っている)。そして、お互い得手不得手はあるのだからカバーし合おうよ、という雰囲気もあり、それはまあまあ機能していると思っている。

ただ、自由にしたいタイプ規律を守ろうタイプ(そんなに単純なものではないが、便宜上そう呼ぶ)がお互いをカバーするにあたって、どうも規律タイプのほうが我慢することが多くないか? と感じることが多い。自分が(かなり強めの)規律を守ろうタイプから

強度の自由タイプはのびのび動く。枠にはめられると動けなくなるよー、だから規律は見逃して! という主張をする。それに対し、周囲のフレキシブル対応できる人々(普通の人ということか)はそれは個性だよねー、カバーしてあげよう、と認めることが多い気がする。これは団体特性上、多様性とか個性尊重とかの価値観が浸透しているので、日本一般的組織よりは認められやすいと思う。それで自由タイプがいろんなアイデアを出していくのはとても素敵だと思う。

ただ、その一方で規律タイプとしては、枠にはめることができない状態への不快感がすごいわけだ。なにも、アイデアを枠にはめようとしているわけじゃない。ものごとの提出期限とか、形にしていくための手続きまでもを自由の名のもと規律を守らないのはどうなの、ということのみ。ある程度の枠にはめるのは、すばやく形にして世の中に出すためだ。そして、規律のある物事の進め方はストレスが低く、こちらとしては非常に快適なんだ。ちょうど、自由タイプがのびのびやっているのと同じ精神状態じゃないかと思う。

でも、定型的にやったほうがうまくいくエリアまで自由にさせてあげて、なんていうのはこっちの個性をまったく無視されているようで、納得いかない。それぞれのマイルストーンや決め事は事前に合意して設定したはずなのに。それを乱されることによる生理的不快感我慢しなくてはいけないんだろうか。それは自由タイプが枠にはめられることの不快感と同じじゃないのか? 

なんだか「アスペ乙」って言われて終わりそうな気もするけど、アスペ的な個性尊重されないのかな。もちろん、行き過ぎた規律を求めることもあって、それを教えてもらえて反省できる(後に活かせる)ことはとてもありがたい。とはいえ、こっちのタイプに対するカバーが「もっと自由にすればいい」「だいたいで大丈夫」という助言って、苦手なことの押しつけで何もフォローになっていない。

団体活動じたいは好きなので、もう少しお互い持ちつ持たれつでできないものなのかと思っているだけ。ただ、この話をタイプの違う人にしても全く理解してもらえないんだ(図解までするのに)。やっぱりこの感覚はわかりにくいのか。

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