いつまで噛んでもなくなる気配がないが咀嚼していればそのうち口の中で溶けて消えていく時が来る、消えても口の中はガムの匂いに侵されている、人と会話している時に絶望という口臭に気づかれないだろうか
そんな感じだ
あえて時代観を述べなさいと言われたら僕は「感情の喪失と排除」だと答えるだろう
例えば現代は怒りに関してはとても不寛容だ、twitterなどでDQNが店員を土下座させていたりするとすぐに共感性が欠如したアホウが湧いてきては社会的制裁を与える
しかしよく考えてみてほしい、人はその時の感情によって怒りのリミッターなどすぐに外れるものだ。僕は高校生の時に500円の借金を返してくれない友人にキレたことがある
理由?ただ虫の居所が悪かっただけだ
キレたことがないのでわからない?おまえはおまえの人生を生きることに尽力したほうがいい
500円で失う友人との関係という社会的損失のことなど頭によぎることもなくキレた、がこんなことをネット上に書いたらなんとバカな人間かと99%の人間が非難するだろう
しかしDQNに土下座させるのも友人にキレるのもネット上で非難するのも単なる「刺激に対する反応」だけで本質はそれほど変わらない
全てを押しなべて考えることができる人間は人の感情が発露した行動にたいして救う気があるなら優しさを見せるかもしくは黙るはずだ、秩序を守る裁きは裁判所でやればいい
よるするに怒ることは恥だなんていう浅薄な考え方が蔓延っている
絶望も同じだ
リストラや借金や失恋、離婚などなど積み上げたものがぶっ壊れたりいきなり奈落に突き落とされる絶望なんかそこら中に転がっている
しかし満員電車で肩を落として座っているわけにはいかない、会社に「失恋したのでしばらく休ませてください」なんてことも言えない
一人でファミリーレストランで酒を煽るわけにもいかない、こじゃれたバーに死んだ目で座っているわけにもいかない
うつ病やパニック障害などは人を嫌うのではなく避けるようになる。これは人が持つ価値観にたいして違和感を持つようになるからだ。うつやパニックの人はけっして人が嫌いだという人ばかりではない
人を嫌うのではなく自らとの錯誤を感じる人のその偶像を嫌うのだ
すこし前までは絶望という経験はとても大切で心を落ち着かせるものであったような気がする。飲みやでは昔の苦労話を笑って誇りのように話す人がたくさんいた
最近はあまり聞かない、それは絶望が恥であるという妙な価値観が格差という言葉に踊らされた人によって作られてしまったからだろう
死んだ目をして肩を丸めて黒いダウンを着て缶チューハイを片手にベッドタウンを歩くことの何が悪いのだろうか
頼むから静かにしてくれ
お前キャラメル噛んでねえか?