手足がなかったり体の一部が畸形だったり火傷をしていたり障害の内容は様々。
大抵歌を歌ったり音楽を演奏したり芸をしたりして注目を引いている。
芸達者であるほどあるいは障害の程度が大きいほど憐みを呼び施しを多く得られる。
田舎でまじめに働くより都会で乞食をやった方がもうかるので、都会に出て乞食をする。
わざと子供に傷害を負わせる親もいる。
親が傷害を負わせなくてもやくざに売り払われた結果不具者にさせられて乞食にさせられる子供もいる。
健常者で一応は職(それに準じる社会的役割)を持っている人たちに「自分が今持っている幸せ」に気づかせ
「優越感」を抱かせ「自負心」を回復させ、「生きる希望」を持たせるという役割だ。
人は他人との比較の中で幸不幸を自覚することが多く、とかく今自分が得ている幸せのありがたみには鈍感になりがちだ。
それぞれが悩みや不満を抱えている。
給料が少ない、生活が苦しい、容姿が悪い、恋人ができない、子供ができない、友達がいない、学歴がない・・・・
悩みを抱えていると幸せそうにしている人たちが恨めしく思えて来る。
手足がなかったり知能が遅れていたり、半身不随だったり目が見えなかったり。
健常者であっても能力がなく見世物になって他人に施しを乞うことしか生計を得る手段がない。
そんな人間と比べれば自分は五体満足で健康だし一応職があって自分で収入を得ているし、まだ恵まれている。まだ人として勝っている。
この人たちよりは恵まれた立場、人として勝っている立場を得ているのだから、やけになってそれをみすみす手放すのはもったいない。
健康でよかった。職にありつけていてよかった。今日を生きよう。
乞食は「社会の鎮静剤」であり、彼らが受ける施しは、大衆の日々のフラストレーションが社会に向けて噴出する前にそれを優越感と蔑みに転化させた功労に対する報酬なのだ。
「誰でもよかった」系の無差別大量殺人のうち、乞食が中国並みに日常的に見られるという条件下だったならば、発生しなかったものも相当数あると思う。
治安維持に貢献する。
弱者であることを盾に権利を主張する人たちは中国の街中で障害をアピールして芸をして物乞いする人たちと本質的に差はない。
彼らのような存在を苦々しく思うと言う人も多いが、実際は社会で必要とされている存在であり、
一種の職業として認めたらよい。
社会の鎮静剤で思い出したが 俺が考えたのはいじめられっ子の職業化 ある程度以上の被害を受けたら、いじめられることによって社会秩序の維持に貢献したということで 無条件で働か...
http://anond.hatelabo.jp/20120905231942