2011-12-13

大学時代とある講義で使ったテキストに『精神疾患の要因には、遺伝的要因と環境的要因の2種類がある』と書かれていた。

教授は眉間に深く皺を刻み、苛立ちの隠せないざらついた声で、室内の学生に命じた。

「これは間違いだから、遺伝的要因の部分を黒く塗りつぶせ」と。

随分と古い文献を参照しているのだなと、教授は憤っていた。

 

4年前、兄は統合失調症を発症した。元々、ストレスを感じやすい人だった。

大学卒業し、会社に勤め始めてからおかしくなった。

ある日に兄は会社を辞め、すぐに入院することが決まった。

こういう病院に行くことになったから、と母から資料が手渡された。精神病院パンフレットだった。

父は4人兄妹で、そのうち3人が自律神経失調症を患っていたことを、その時に知った。

叔父の息子(つまり従弟)が長い間入院しているのは、兄と同じ病気罹患しているからという事実も、同時に。

笑いたくなった。父から子へと、遺伝しているじゃないかテキスト記述が正しかったんじゃないか

腹を抱えて笑いたくなった。偽善者め。あの講義をした教授に後ろから飛び膝蹴りを喰らわせたかった。

出来なかったので、代わりにテキストを開き、塗りつぶした箇所の上に修正テープを貼り、それから「遺伝的要因」と書き直した。

 

兄は、そして私も、もう結婚してもいいような年頃だ。両親にはそろそろ孫の顔が見たいと言われている。

しかし、少なくとも私は、結婚する気はない。万が一結婚することになっても、子どもを産むつもりは毛頭ない。

少し前、胎内にいる子どもに障害があることが発覚したら、産むか産まないかという討論があった。

普通の人にとって、何らかの障害を持つ子どもを授かる確率は、1000分の1とか10000分の1とかの、比較的低い確率である

しかし、私自身の場合はどうだろう。普通の人よりは、高い確率であるだろうと思う。

障害は個性ひとつ。素敵な言葉だと思う。これが常識となった世の中は、お花畑のような素晴らしさなのだろう。

兄のことを馬鹿にするわけではないが、障害は、重い。妹である私がそう思うのだから、親として兄を背負う父母の負担は大きいはずだ。

そして、自分の子どもがそうなってしまったとき、私には耐え切れる自信はない。

兄はこれからどうなるのだろうか。障害をなるだけ軽くし、自立しようと、兄は努力を重ねている。

しかし、時折、ぎらぎらとした危うい光を宿し、家族を睨みつける兄を見ると、それは無理なことではないだろうか、という思いが湧いてくる。

父母が死んだとき、兄を背負うのは恐らく、私の役目になるのだろう。

その時に結婚していようといなかろうと、一生、兄を支えていくことになるのだろう。

それが嫌ならば逃げ出せばいい。選択肢ひとつとして、それを思いつくものの、そんな非情なことは出来ないと、すぐに打ち消す私は、家族の絆という名前の鎖に縛られている。

 

父は私に言う。「お前は元気で良かったな」と。

父の血を引いている以上、私もいつ狂ってしまうか分からない。

人よりも感情の起伏が激しくて、落ち込みやすいという自覚はある。

いつか、おかしくなってしまうかもしれないことが、恐ろしくてたまらない。けれど、誰にも言えずにいる。

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