2024-04-19

「加害を受けた者は、世界にその正しさを問うのだろう」

先に宣言しておく

この社会において、加害行為は一切許容されない

どのような理由があろうと、どのような事情があろうと、どのような過去があろうと


道徳責任、いわゆる罪がどこに宿るのかという議論がある

即ち、罪を判断する判断材料意志なのか行動・具体的な影響なのか、である

から誤解を与えないようにもう一度書いておく

具体的な行為としての加害行為については、許してはならない

それとは別の話として、以下の事を書いていきたい


佐藤さんは「彼の一言がなければ確実に生きてなかった」というが、「家族暴言が今も脳裏によぎり、夢にまで出てくる」。

そうすると、平静でいられなくなり、発作的に「ダメだ。価値がない」と自分を責めてしまうだけでなく、SNS(X)で繋がる知人にも被害妄想をぶつける。「そのたびに親交が途切れて後悔する」という。

当時は衝動的に荒らしをしていたというが、一方で「疑問系の投稿にすることで名誉毀損などのリスクは減らせるという気持ちがあった」「私自身がされて一番嫌なことを同じようにしたのではないか」と冷静に当時の状況を振り返る。

また、かつて、家族から受けてきた暴言がどんな名誉毀損侮辱に当たるのか調べていたこともあったという。

――「ライブ配信に2000回以上「荒らし」投稿、にじさんじ所属「ライバー」を活動休止に追い込んだ男性の半生と後悔」より

地獄がある

恐らく、この記事に対して「加害者に寄り添いやがって」のようなコメントが山積するだろうことも含めて、この記事にまつわるあらゆる状況が悲哀と苦痛連鎖から

私は以下の記事を思い出す

自己犠牲とは、「間違ったこ世界への復讐」という意味が込められています

(この場合世界とは、自分以外の全てです。親も兄弟恋人もすべて世界の一部です)

なぜ「復讐」になるのかというと、

日常生活においては、この世界不都合のない世界で、自分の力の及ばない巨人に映るわけです。

かたや自分は、小さな存在腕力経済力もなく、世間からも顧みられることのない人間だと思っています

でもこの子の心の奥底では「この世界は間違っている」のです。

それを証明するためには、「復讐」という方法しかないのです。

この世界自分に送り込んできた使者と対決し、自分の正しさを証明し、相手無能もしくは無慈悲暴露することが、生きる目的になります

この世界自分に送り込んできた使者とは、親であったり、恋人であったりするわけです。

――「第5回新恋愛心理学-自己犠牲という名の恋愛-」より



この記事においては自己犠牲テーマとして扱っているが、構造としては同じであると感じている

攻撃性の方向性が内側に向いているのか、外側に向いているのかの違いに過ぎない、と思う

自分が行った加害行為を罰して欲しい気持ちも、罰して欲しくない気持ちもあるのだろう

加害行為を止めて欲しい気持ちも、止めて欲しくない気持ちもあるのだろう

トラウマは再演を伴う、私はそう思う

「ほら。自分が受けてきたことと同じ行動を今しているぞ。親から受けてきた理不尽だ」

「お前らは平気でそういう加害をしてきたし、見て見ぬふりしてきた」

「だったら、私が同じことをしても何も問題がない、そうだろう?」

「なぜ許されない?だったら、どうしてあの時は助けてくれなかったのか、なぜ酷いことをしたのか」

「何故、何故、何故……!」

そういう怨嗟の声が聞こえる

傷付けてきたもの全てへの、それは問い糾しなの

  • 反出生主義というか反生命主義か

  • でもおれたち弱男は何もしてないし普通に暮らしてるだけなのに加害してるとして迫害され続けてますよね

  • こういう虐待の連鎖的なのはまあ分かるんだけど この間にフィギュアみたいなのに加害だの言うのはむしろ加害を矮小化してるとしか思えんわ

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