2021-04-25

[] #93-10「栄光の懸け箸」

≪ 前

市長こちらの書類サインと判を」

「はー、やれやれある意味で尤も重要なのに、尤も簡単仕事なんですよね。政治システムバグだと思うんですよ。放置せずデバッグすべきです」

「その話、何回目ですか。もし本当に問題と考え、解決すべきと思っているのなら、ここでおっしゃらず議会で“デバッグ報告”してみては?」

「他に優先したい議題があるとかで、スルーされるのがオチですよ。いち市長意見なんて、上は都合のいいときしか聞いてくれません」

「でしたら、せめて目の前の書類と戦ってください」

最近市長はというと、これといった目新しい政策を打ち出すこともなく、良くも悪くも“市長らしいこと”に従事していた。

だが、その状態はいわば休火山のようなもので、政治魂が噴火するのは時間問題といえた。

「えーと、なになに……『授業に使う矯正用の箸を、大手メーカーに受注・依頼するための予算』……」

最近、市内の新聞でも持ちきりでしたね」

義務教育で箸の持ち方……」

予算的に問題ないので、後は認可だけ……市長いかしました」

矯正強制……笑えませんね」

だが意外にも、この件に対して市長政治気質は燻った。

この場合は冷静、いや消極的というべきか。

少なくとも、呟いたダジャレを自嘲する程度には落ち着いていた。

市長は箸を正しく持つことに否定的なので?」

「いや、箸の持ち方についても賛成派、ということにはなると思います私自身、箸はちゃんと持てていますし、ちゃんと持てた方がいいとも思っています、けれども……」」

市長の歯切れは悪かった。

いつもの強弁は鳴りを潜め、ひとつひとつ言葉を選ぶように喋っている。

彼の気質を知る秘書ですら訝むレベルだ。

「幼少時代、親に厳しく指導されましてね。ちゃんと持てるようになって良かったと今は思いますし、親の教育にも感謝はしています、けれども……」

「なにか嫌な思い出が?」

「そりゃあ当時の心境を顧みると、決して愉快とは言えませんよ。意味すら分からない歳で親に言われるがまま、慣れない食事強要されるわけですから。大好きなひじき煮物を、ちびちびと時間をかけて食べていた時は妙に悲しかったのを覚えています

ひじき煮物が好きとは、随分と渋い子供ですね……」

「その教育の賜物、“反動”というべきなのでしょうか。私の中では箸を正しく持つことへの信念と同じくらい、それを相手に求めることへの抵抗感もあるんです」

箸に歴史があるように、個人の持ち方にも歴史あり。

その歴史を背負っている市長も、この件ばかりは普段の向こう見ずな姿勢を正すしかなかった。

市長お気持ち理解しますが、皆が皆そう思うわけではないですから

「だからこそ、この件を推し進めるべきなのか疑問なんですよ」

「むしろ“逆”かと。誰が、何に対して、どう思っているかからいからこそ様式に則り、規範を形作るのです。でなければ人々は何を正しいと思い、行動すればいいかからなくなります

しかし、市長一人が頭を抱えたところで、書類の段階では突っぱねることも難しい。

次 ≫
記事への反応 -
  • ≪ 前 箸の持ち方を授業で徹底的に教えるというニュースは市内に轟き、そして他の学校も見切り発車気味に真似しだしたんだ。 そして広がりを見せると授業内容は最適化されていき、...

  • ≪ 前 この場における、市長の認可は通例的なものにすぎなかった。 既に各役所で審査は終わっており、市長の考えうる懸案事項は通過済みだからだ。 市長が七面倒な人格者でも町が...

    • ≪ 前 昼飯を買ったが、未だ結論ではない。 このまま帰れば、何となく判を押して終わりだろう。 最後の抵抗とばかりに、イートインコーナーで昼食を済ませることにした。 「いた...

      • ≪ 前 「ほぅ、マイ箸ですか」 市長は思わず声をかけた。 別に彼から箸の矯正について意見を仰ぐつもりではない。 ただ箸を綺麗に持つ者として、その“趣”を知りたかったんだ。 ...

        • ≪ 前 ここにきて、紳士は相手が市長だったことに気づいたようだ。 「そうですが……どうかしましたか?」 「い、いえ、どうもしません。では、私はこれでっ……失礼します」 す...

          • もうそろそろ山場かな

          • 書籍化したら「増田みたいなネットのゴミ捨て場か本が出た!?」ってな感じでちょっとしたムーブメントが起こりそうで楽しめそうなんだけどなあ。

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