最近、不登校についての話題が多いので元不登校児として気になった事を。
言いたいことはタイトルの通り、不登校は結果であって不登校児が抱えている困難は登校したからといって解決するわけではないということ。
その困難を脅しで解決させようとしないでほしい。
以上。
以下は自分語り。
学校へ行くことのメリット行かない事のデメリットは親はそりゃもうわかってる。子供はわかっている子とわかってない子と、わかっているけど諦めている子がいる。
自分は理屈としては理解できていたけど、不登校になったのならそれらのメリットを求めてはいけないと思っていた。
だから二十歳過ぎたら自分は死ぬしかないと思っていた。家族のおかげでなんだかんだ二十歳過ぎてもみっともなく生きているけどね。
不登校児への説得ってする側の大人も追い詰められているのでどうしても脅しのようになってしまう。
けれど子供はなにしろ子供なので、それを真に受けてもう自分に将来はないと受け止める。少なくとも自分はそうだった。
最近は不登校へのケアが増えてきているようで、大人も穏便にそれを提示できるのなら良い時代になったと思う。
自分たちの時代にはマジで登校するか死ぬか将来死ぬかだった。実際死んでしまった友人もいた。
ネットでは逃げた先の教育を考えずに逃げるなという声も多いが(まあ正論ではある)後のことを考えて逃げられなくなって死んでしまった友人のことを思うと自分は絶対に肯定できない。
ただ教師や親の立場を考えると、とにかく登校することをゴールにしてしまうのは理解できる。けれど子供にとっては地獄の始まりだ。
いじめが原因の場合は想像しやすいだろう。学校という場に困難があるので転校することで不登校から脱する子も多い。
けれど、いじめが原因でない不登校は想像しにくいだろう。こちらの原因は身体的なものから精神的なものまで様々だ。
子供本人の内面に理由があるということで甘えとして自力でなんとかするよう促されることが多く、これはこれでいじめとは別の地獄がある。
自分もこのケースで、他人から理解を得られないのは仕方ないとしても、自分でもなぜ登校できないのかがわからなかった。
ただ「できない」のだ。
わけもわからずマリオの1面の最初のクリボーで延々死に続けるような感覚を覚えている。
周囲はこぞってジャンプすればいいと言う。けれど何度やってもAボタンを押してもジャンプができない。
できたと思ってもスタート時にキノコやファイアフラワーを取っていただけで、以前ジャンプはできないままだった。
すると周囲はなぜできない、できるはずだ、最初からやり直せと言う。できないことは全て本人の気持ちの問題として処理された。
何度マリオが死んでもゲームは終わらない。終わらせるためには本当に死ぬしかない。
大人になって知識を得てやっと「自分にはジャンプ機能がないから」と言語化できた。
まあ今できたところでそれまでに壊したメンタルや体が戻ることはなかったが。
自分のように普通市民になれなかった元不登校児から見ると、簡単に不登校を勧める人間も、後の保証がないのに逃げるなという人間も、同じく軽薄に見える。