なんて言っても別に体質とかそういう事で乗れないわけではない。
ただ単に怖いのだ。
鉄の塊に詰め込まれシートベルトを締められ身体がグワっと椅子に押し付けられるような重力を感じ機体が浮く。怖い。
…なんで怖いの?
飛行機以外にも高いところは怖いし絶叫マシーンは好きではないし、さらに言うならエレベーターで一瞬感じるあの無重力感も苦手だ。
幽霊が怖い人が何故怖がるのかとかゲテモノ料理が嫌いな人に何故嫌うのかとか、わざわざ尋ねるか?
そんなことはどうでもいいのだ。怖いものは怖いし嫌いなものは嫌い。
今までの人生で飛行機に乗ったのは小さい頃の家族旅行と高校の修学旅行だけだ。乗ってみたらたいしたことなかったね、なんてことはなかった。大変な緊張とストレスだった。正直もう一生分の飛行機搭乗経験は済ませたのではないかと思う。もう乗りたくない。
幸いにも現在は飛行機に乗る必要のある仕事も趣味も持っていないので大地に足の着いた生活を送ることができている。幸せなことだ。人の子、もっと大地讃頌せよ。
まあ、嫌だと言っても命に係わる場合があれば背に腹は代えられないので乗ると思う。
ゲテモノ食いが嫌な人も、他に食料が無ければ虫を食べるしかないだろう。飛行機に乗る以外に生きる道がない、というシチュエーションになったのなら乗らざるを得ない。
でも今はそのときではない。
しかし自分がそうであっても周りの人間はそうではない。仕方ないよね。だって自分は自分で他人は他人だもんね。
友人には旅行好きな人が何人かいる。もちろん海外旅行も好きだ。それは良いことだと思うし、旅行のお土産を貰ったり代え難い経験をしたという話を聞くのは好きだ。とても楽しい。
そうすると友人は言うのだ
海外に興味はあるし海外旅行という大きなイベントの同行者として自分を誘ってくれることは嬉しく思う。
しかし、しかしなのだ。友達は少なくないが飛行機には乗れない。
その旨を伝えるとほどんどの友人は言う。
大丈夫だよ。飛行機なんて一瞬だよ。なんで怖がるのかわからないな。事故を心配するなら飛行機より自動車のほうが事故数は多いんだよ。
そんなことは知っている。知っている上で嫌なのだ。誘ってくれる友人達には申し訳ないが、今は飛行機という苦しみを乗り越えてまで海を越えて見知らぬ土地へ行きたいとまでは思わないのだ。同行しなくともSNSで楽しそうにしている姿や写真でも見せてくれれば充分だ。
なんどもなんども同じことを言わせないでくれ。飛行機が苦手なのだ。
こうして何度も友人達の誘いを断っていると、まるで自分が人の心が無いような薄情者であるかのように思えることがある。
だがしかし、なぜ飛行機が苦手と言っている相手を海外旅行に誘うのだろうか。
無論海外旅行が好きなのだろう。国内では駄目だろうか。飛行機が駄目だと伝え「なら飛行機を使わない国内旅行はどうだろうか」と返してくる人はいない。当然だ、だって彼らは私と旅行に行きたいのではなく、ただ海外に行きたいのだから。わかっている。知っている。
それはいい。構わない。旅行が好きだというのは充分知っている。だからせめて。
私を友人と思ってくれているのなら、友人が苦手だと知っているのに提案しないでほしい。私が飛行機を苦手に思っていることは知っているが、知って尚対案の用意もなくいつも同じ気休めの言葉しか出さずストレスを伴う行為を求めていると自覚しているのだろうか。
例えば、アレルギーというわけではないが苦手な料理がある友人に「おいしいよ。たいしたことないよ。みんな食べてるよ。なんで食べないのかわからないな」なんて言って嫌いとわかっている物を食べさせようとするだろうか?
私を友人と思ってくれているのなら、自分は苦手ではないからと友人の苦手を軽んじないでくれ。それだけだ。
と、ここまで書いたがもし、もしも、なにか大きな心変わりや大いなる理由があって飛行機に乗って何処かへ行くことがあるのなら
同行者は私と同じように飛行機が苦手な人がいい
空港への道を共に死地へ向かう戦士として分かち合い、ロビーで二人青い顔で目配せし、互いに生きて再び大地に足をつけることを誓うのだ
離陸する飛行機の座席で手を握り数時間を戦い海の向こうに辿り着いたら息を吐き、帰りにまたあの鉄の塊に呑まれることを嘆きたい
苦しみを理解できず第一の試練を乗り越えた戦士に対し「ほらみろ、大丈夫だっただろう?」なんて言葉を掛ける相手よりは苦しみを共有する相手に隣にいて欲しい
「僕は根性がないから飛行機に乗れない」 って書けば済む話やんけ。 長文にすんなや。
おれも飛行機苦手なんで同じこと時々考えるのだが、 絶対安全を0、絶対死ぬを100とした時、 飛行機の中で起こってる出来事、揺れたり遅れたり何か故障したりそういう何らかの危険要...
病院に行け。