2016-06-13

くすぐったい声の女性が好き

ちょうど思春期を迎えようとする多感な頃の話だ。

その頃に読んだ小説に使われていた表現なのだが、すでにその出典もその声がどのように表現されていたのかも思い出せない。

きっとその表現にまだ見ぬ大人世界を夢見たのだろう。

その頃からずっとそういう類の声に憧れている。

出典も表現も忘れているのにどうやってその声に憧れることができるのだと思うかもしれない。

実はその時、まさにそれと言える声と出会っていたかなのだ

それは一人で留守番をしている時のことだ。ひとりで時間を持て余しているところに電話ベルが響いた。

すぐに受話器を取ると、かかってきた電話はどこで調べたのかわからないが僕に対する予備校勧誘電話だった。

(親が自営業をしていたこともあるが、その時代電話が鳴れば出ることは当然のことだったのだ。)

当時は珍しかった女性から営業電話だった。

始めは親を探している様子だったが、仕事の手伝いに出て留守だということを告げると、次に僕の名前を口にしながら本人であるかを確認してきた。

正直予備校には全くと言っていいほど興味はなかった。しかし、僕はその声に釘付けになってしまっていた。

電話から聞こえてきたその声はまさに自分想像していた”くすぐったい声”そのものだったのだ。

予備校に通う気がなければ、当然返事積極的な返事は出てこない。

でも、少しでも長くその声を聞いていたいがために、僕は思わせぶりな返事をしてはいたずらに会話を長引かせたのだった。

そんな僕のはっきりとしない様子を悩んでいると考えたのか、声の主は僕が発する言葉を丁寧に耳を傾けては、千変万化に感情を変えて答えてくれていた。

優しい声、励ますように力を持った声、迷いにそっと寄り添うような声、時折漏れ大人の余裕を感じさせる喜色を帯びた息。

可愛らしくもあり妖艶とも聞こえるその声を一つとして聞き逃さないように受話器へ耳を強く押し付けては、僕の中に響く音の一つ一つの、恐ろしいくらいの心地よさを感じていた。

不思議な事に、思春期真っ只中の多感な頃でありながら一切の性的興奮を覚えることはなかった。

それは未だに謎のままであり、その時はただ純粋にその心地よさに酔いしれていたかったのだ。

1時間はくだらなかっただろう。もっとかも知れない。

とうとう断る理由も尽き、僕は彼女に説得された形の返答以外の術を失ってしまった。

「ひとまず親に相談してみます」と告げると、彼女はその日一番力強く、それでいて包み込まむような声で「君なら大丈夫」とだけ答えた。

あの時のことを考えると、今でもこの上ないほどに申し訳なく思う。

きっと彼女ノルマのために必死だったに違いなかったからだ。

からこそのらりくらりといい加減な返答を行なう僕をあれだけ長い時間をかけてでも説得しようとしたのだ。

それが、ただ1秒でも長くその声を聞いていたいだけの少年に対する無駄努力だったと知ったらなんと思うのだろう。

そんなことを考えては、あの声が怒りに満ちた時はどんな響きを楽しませてくれたのだろうかと、好奇心に押し切られるのだった。

翌日、学校から変えると母親から突然問いつめられた。

あん予備校になんて行きたいと思ってるのかい?」「今まで何度聞いても行く気なんてないっていってたじゃないか」「いくらわたしが断ろうとしても、相手が”本人はもう行く気になってる”って譲ろうとしないんだよ」

そう問い詰めてくる母親に、まさか「声を聞いていたかっただけ」だなんて言えるはずもなく「行く気ないよ。断り方がわからなかったんだ」とだけ答えると、母親は「やっぱりね。またかけてくるらしいから断っておくよ」とだけ言って忙しそうに夕食の準備に戻っていったのだった。

もしそこで「行きたい」と答えたら母親は許してくれただろうか。

もし行かせてもらえることになれば僕は声の主と直接対面することができるし、それ以降もその声を聞き続けることができるかもしれない。

そう考えると惜しい気もしたのだが、何となくではあるが、その声との出会いはそれだけにしておきたかったのだ。

恐怖、というのが一番近いかもしれない。

進んでしまえば、決して戻ってくることのできない一本道に足を進めるかのような不安だ。

それに、これから人生きっと出会える機会はいくらでもあるはずだ。

これから人生、めくるめく大人世界が待っているはずなのだから

そのときはそんな程度に脳天気に構えていたと記憶している。

あれから20年以上が経った。

しかし、ついにそれ以来”くすぐったい声”と言える相手出会うことはなかった。

実在していれば”この声”だと伝えることができるのだが、残念ながらそれは叶わない。

ただ、あの時の声は確かに僕の脳裏にはっきりと残り続けている。

それは、高すぎず低すぎず、ハスキーでありながら音の一つ一つがしっかりと響き、滑舌よくもありながら適度に息が漏れていくような、芯の強さを感じさせつつも甘い響きがあり、エロスでも母性でもない、離れていても耳元で囁かれているようなくすぐったさを持った声である

これぞという声の持ち主を知っているならば、ぜひとも教えていただけないだろうか。

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