物事は存在している形で存在している。 言葉は写真のようなもので、薄っぺらい一時的なものだ。 人間は環境の生き物。 表現のためだけに環境という言葉で表現したけども、目に見えるものの話ではない。 同じ環境に違う個体を投入しても違う反応が得られるであろうが、 その個体をどの環境に投入するかによっても異なる反応は得ることはできるはずで、そちらの方。 すべての人間は、人間らしい行動をするはずだと思っている。 気づき。ためらい。 最初は意識的に行い、無意識となって習慣となったりする。 今ちゃんとやったという行為があってそれは過去になる。 過去ちゃんとやったと言えるために今を生きる。 人は評価を求める生き物。 評価する能力のない人からの評価ではだめ。 自分が評価していない人からの評価ではだめ。 評価している人から評価されたい。評価していない人からの評価はどうでもいい(理不尽な評価に対する皮肉的返し) なぜ人は生きるのか。理想が存在するからだ。 私は相手に言葉を求めることはいたしません。私が求めているのは言葉ではなくて、人間であることです。 相手が人間であることを求める目的のために、言葉は使われるだけです。言葉自体には価値はございません。人間であることに価値があります。 人間を求めて、その上で言葉を求めるものなのに、言葉だけを求める、過去が存在しない人たち。 ポエム書いても仕方無いけど思うことは存在するし、存在しなきゃ存在できないし、存在するものが存在するように存在しなきゃ存在するものが存在するように存在しないし、承認欲求とかも表現でしかないし、存在するそのものではないし、 承認を求めるというより、存在を求めるってのがまだ表現としてマシに思う 自分で自分(の認識空間)に満足しているから誰よりも幸せ。自分は自分を尊敬しているし、生まれ変わっても自分になりたいし、そう言えるように生きた。 誰も幸せにならないことは誰も望んでいない。 美しいものが好き。美しくありたい。 ◆ 生き苦しいところがあって、生き苦しさの解消が一番コスパの良い投資に思える。 自分が嫌になることも昔は全くなかったけど最近は体が死んでてなにもできなくて嫌になるし、他人がもっと若い頃に経験するイベントをかなり遅くに経験してる感じがすごくあるけど、別に自分が経験してて他人が経験してないことだって…… 人をまともに評価する気がないって宣言した人を称賛する人間たちが嫌 楽しい、という言葉も昔はよく分かんなかった気がする。とにかく言葉がよくわかんなかった。 表明したくないことは私にもあって、簡単に言えばやる気がないことだったりするけど、表明をためらうことによって悪循環しかないなって思ってるところはあって まず何よりも他人の言葉に対する認識が謎すぎる。信じられない。どう認識してるのかさっぱり分からない。 よくカウンセリングとかいう文字列を見るけどそんなに身近なものなのかしら。別世界のワードだと認識してしまってるところが強くある。 忘れたくないという思いが強くて、すごく足を引っ張ってる。忘却は恐怖。 問診とか何も異常がないです以外の応答をしたことがないのだけど、カウンセリングを受けさせるためのカウンセリングがまず必要な気がする コミュニケーションに飢えてる自覚あるけど、そんなことしてる場合ではない自覚もあるけど、これ両立しないからしんどい 言葉に対する葛藤が一番大きい。ふつうの人は言葉に葛藤がないのか、ないのか。 体がかゆい→かく→手を洗いたい、の動き、毎日十数回繰り返してると思うけどかなり時間と水道代使ってると思う 許可がないと何もできないみたいなところある。完全な自由などはなくて部分的な自由。いろんなものを整理したい欲求があって、でもノウハウがない。無駄に潔癖症でマスクと手袋では足りない。目がいたいから嫌だ、みたいな 納得できないことは納得できない理由がたしかに存在したからめんどくさい 適切な環境を与えればとても高度な出力ができた体であった、と思うのは人類共通ではないのだろうか まじめで丁寧に仕上げることができるという長所は漠然とした自覚があって、でもなんか言葉に対する不信感があって表現しようがなかった 忘れられない一瞬一瞬の場面はなんだったのだろう。発声こそしないものの頭の中ぐるぐる
なんでもいいけどフツーに書けよ、字が小さくなって読みにくいんだよ。
人は相対的な生き物 人は今しか生きれない生き物 人はニューロンとシナプスで造り出した概念 人は自然淘汰を潜り抜けたサル目ヒト科ヒト属の生物 人は動物だよ。動物ってことを忘...