2013-12-24

珈琲四杯分、時間旅行をしてきた。

から少し距離のある喫茶店この街では、それなりに長い歴史を持つお店なのだが、駅前開発の影響を受け、つい先日現在場所移転した。オーナー意向で、移転を機に若い女性向けの内装となったため、長い歴史には似つかわしくないポップな洒落空間となっている。仕事息抜きに、ぼくが立ち寄るお店のひとつ。二十代〜四十代の、働く男性たちがこのお店を利用する主な顔ぶれだ。

移転してからというもの、近くの高校に通う女子高生たちが出入りするようになり、それはそれで平和的な絵面なのだが、どこか尻がむず痒く落ち着かない。だから最近は専らお昼が落ち着いた時間に寄るようにしている。この時間はお客さんも少ないため、ぼくはオーナーや店員さんたちと他愛もない話をしながら、珈琲を二杯飲んで帰る。この日もそのつもりだったのだが、思わぬ出会いによって習慣を破らざるを得なくなった。

その老人は、店内に入ると軽い戸惑いの表情を浮かべたが、数秒のうちに何かを納得し、カウンターに腰を据えた。お客さんはぼくと彼だけだ。カウンターに二人で並ぶカタチになった。老人はぼくの前に灰皿が置かれているのを目にし、自らもガサゴソとポケットを探りはじめた。オーナー女性が、スッと灰皿を出す。老人は煙草を探す仕草をいったんやめ、オーナーの機転に「ありがとう」会釈をする。その仕草から「ダンディで、丁寧なおじいさん」という印象が漂う。ぼくは不思議と、この老人がいまのこのお店の雰囲気に最も似合っている人物であるような気がした。

「ホットコーヒー、だけでも大丈夫ですかな。」

芯の通った太い声に、オーナーがもちろんですよと笑顔で答える。老人は、珈琲を淹れる準備をしはじめたオーナーを優しげな目で見届け、ポケットから丁寧に折りたたまれた一枚のチラシを取り出した。すぐ近くのデパートのチラシだ。

クリスマスケーキ…ですか。」

ぼくは何気なく尋ねた。

「ひ孫に…ね。」

老人はチラシを前後させながら、文字の読みやすい距離を測りつつ答えた。

「ひ孫さんですか。」

ぼくは少し驚きの気持ちが込められた声を出してしまった。オーナーも少し顔を上げ、驚きの表情。ご老人は、確かにご老人だが、ひ孫がいるような歳には見えなかった。そんな空気を察したのか、老人は「ふふ…今年、九十歳」と照れくさそうに自分の歳を告げた。

「九十歳!」

「…そう。長生きしてしまったねえ。ここらも変わるわけだ…。」

「九十歳というと…ぼくの六十五歳上ですね…。」

「そうかね。君は孫より歳下か…この歳になると、若い子を見ても幾つか判断つかなくなるなあ。」

「はあ…それはそうで…いや、そういうものですかね。」

「おまたせしました」

珈琲を出し、オーナーも会話に参加する。

「このあたりでお仕事をされていたんですか?」

「このあたりは、たまにかな。魚をおろしに来ているんですよ。」

「魚…」

築地市場で魚を仕入れてきてね、今日も、その帰り。」

「え…!まだ現役なんですか!?

「そうだよお!さすがに重たいもん運んだりするのは、若い人たちに任せているけれどねえ。」

「はあー…」

ぼくとオーナーは目を見合わせてしまった。

「いまは…いい時代になったよ。君たちは自由だ。軍人勅諭を暗記する必要もない、どんな仕事だって選べるし、勉強したいことがあれば、その道の学校はたくさんある。幸せ時代だよ。」

遠い目をして語る老人に、ぼくらは何と言ったらよいかからずにいると、老人は「まあ、私たちだって負けじと幸せだったけどな」とニヤリと笑ってみせた。説教臭い話がはじまるわけではなさそうで、ぼくは少し安心した。店内の緊張が一気に解けていく。

青春は、誰にとっても誇らしいものだ。」

若い頃は、どちらにいらっしゃったんですか。」

戦後東京だねえ…東京に出てくれば何でもあると思っていた。」

東京も、いまとは全然違ったんでしょうね。」

「ああそうさ。あの頃、渋谷喫茶店には珈琲あんみつしかなかった。フルーツポンチというものを出す店が出はじめた頃は、仲間とみんなして食べに出かけたものだ。」

「…なんだか、想像もつかないです。」

「そうだろうねえ…メチャクチャ時代だったよ。何もなかったけれど、楽しかったし、若さだけはあった。それに…」

「それに…?」

煙草の煙をふかし、一呼吸置く。「…女性美しい人が多かったねえ。」

オーナーが嬉々として尋ねる。「おじいさん、カッコイイし、モテたでしょうねえ。」

老人は煙を払うように手を動かし「ぼくは、ぶっきらぼうだったか全然ですよ。」

老人は、遠くを見つめるようで、すぐ近くのことを語っているようだった。

女性は…どんな女性がイチバンですか?」ぼくが尋ねる。

「ふむ…」老人は少し思案を巡らせ「…言葉遣いが綺麗な女性だね。言葉遣いが綺麗な女性は、セクシーだよ。」

この言葉に、ぼくは胸を打たれた。「美しい言葉遣い」と「セクシー」という単語が、こんなにもスマートイコールで繋がることを、ぼくはこの時まで知らなかった。

それから、老人はぼくらの知らないこの街東京日本という歴史を語り聞かせてくれた。やがて「おお、そろそろひ孫のケーキを買いに行かないと」と言って立ち上がり「はじめて入ったけれど、いいお店ですね」と優しく言葉を残し、去っていった。

その言葉に煽られるようにして、予定時刻を大幅に過ぎていることに気づいたぼくも立ち上がった。

会計は、珈琲四杯分。珈琲四杯分、タイムスリップを楽しむことができた。

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