はてなキーワード: 恐怖とは
特に書くことはないです。匿名でなきゃ書けないようなことを孕んでもいないです。日常的に抑圧されてるといえばされていますが、吐き出さなくてはならないほど僕を圧迫してもいません。誰しもがするような我慢を受け入れて生きているわけです。耐えなくてはいけなくて耐えていること。あるっちゃあるんでしょうが、思いつきません。あ、一つありました。ネットでホットな他者とのコミュニケーション問題。
友人が煩わしいと思うことが多々あります。ほぼ毎日あります。でも側にいないとなると寂しくなります。心を開いていないんでしょう。いつからこんな性格になってしまったのか気になっています。中学2年生の頃はそれほどでもなかったと記憶しています。ピークは高校1年生くらいでしょうか。暗いのかヘラヘラしているのかはっきりしない、まさしく蝙蝠のような人間だった気がします。今は少し、世の中に蔓延るつながりとか関係とかいったものや、いろいろな感情とか、経験とかに揉まれ削られくすぐられて、丸くはなってきたように思います。そこには、一人の女性が大きく関わっているように確信しています。現在進行形で、僕の心を乱し、安定させ、変容させています。彼女とどうにか親密になりたくて、メールなんかをして、つながりを深めようと画策してみていますが、さすがに小手先で自らを偽っているうちはその目的は果たされそうにない気がしています。小手先で自らを偽る。つまるところ言葉遊びです。
口先でどうにかしようとしています。僕は彼女に限らず、ほぼ全ての周囲に対し口先で何かを及ぼそうとしています。言葉を発するときは責任が伴います。ですが、それは相手をしっかり見据えた上で、相手に向かって発した場合においてです。相手を見ません。私は相手を見ません。ある種のキャラクターに対して語りかけます。ある種の決まった型を適用して言葉を発します。私をがんじがらめにするテレビと漫画とネットです。もちろん僕が軟弱であり自らの経験が不足しているがゆえに、他者の経験を流用して生きようとしてしまうのでしょう。僕の弱さは、恐怖することでしょう。恐怖に恐怖してしまうことです。恐るべきものに敏感なのです。畏怖すべきものの気配が僕を縛ります。
例えば未来。勝手に流れる時間に有無言わさずして流された先に、僕は、過去に知ってしまった恐怖の味を思い出すのです。想像するだけでよみがえる畏怖、というのには、抗うすべを持ちません。行動のみが表現してくれる「結果」に、おっかなびっくり手を伸ばすけど、やめてしまう。僕の弱さとは、そのような肥大化した想像と、そこからずるりずるりと引きずり出されてくる過去の畏怖、そしてそれらを恐れるやけに貧弱な心、なのでしょう。僕はこれからやらなくてはなりません。想像の破壊、過去との対立、現在を生きる貧弱な僕との切磋琢磨。これらをなしえて、やっとこさ、僕は楽しみを楽しめ、友人と馬鹿をし、あの女性、いや女子と、今を生きられるのでしょう。
でも、ふと、僕はここまでの軌跡をぶち壊したくなりました。率直に言いましょう。僕は幸せだし、変わらない自分というのも面白いし、ついでにオナ禁十日目です。身悶えするような女の子の画像、下さい。僕が匿名に期待するのはアドバイスでも慰めでもない。わずかばかりのブックマークとエロ画像だ。我ながらおこがましい。VIPでやれってなもんだ。でもホントのこと言うと悲しくて仕方がない!もう嘘つきでいたくはない!正直さをどこにおいてきちまったんだ!どうかタフガイな増田、正直な心を僕に下さい!
私が本にのめり込むきっかけとなったのは、小学二年生の時に親から買い与えられた江戸川乱歩だった。題名は覚えていないのだが、怪人二十面相シリーズのどれかだったと思う。それまで童話やゲームブックしか読んでいなかった私は、たちまちその"はじめての小説"に夢中になった。何度も読み返し、本屋に行くたびにシリーズをねだり、次々と読破していった。読書欲、を感じた最初の瞬間だった。初めて自分のおこづかいで買った小説は「三角館の恐怖」で、この本に関しては購入した店も、そのシチュエーションも、はっきりと覚えている。あの頃は今よりももっと、本は輝いていて、私にとって尽きぬ宝の山のようだった。
やがて江戸川乱歩の子ども向けに出ているシリーズを制覇した私は、買い間違えたことをきっかけに、よく似た装丁のアルセーヌ・ルパンシリーズにも手を出した。「奇巌城」「813の謎」……ルパンの冒険と謎に胸をおどらせることの幸せだったこと。読み終わった私は、今度は祖父母に世界文学全集をねだった。この頃にはもう、両親よりも祖父母にねだる方が勝率が高いことを、私は理解していた。手に入れた全集は分厚く、何冊も連なり、私はそれをむさぼるように読んだ。私はそこにある本を読まずにとっておくことや、ゆっくりと何回にも分けて読む、ということの出来ない人間だった。覚えたての読書の味は熱病のように私をとりこにしていて、憑かれたように全集に没頭した。「海底二万マイル」「秘密の花園」「小公女」「黄金虫」……めくるめく世界は、まだまだ幼かった私の前にどこまでも広がっていた。
そうして、三年生になる頃には親はもうあまり本を買ってくれなくなった。その代わりに、図書室があるじゃないか、と私に言った。図書室に入り浸ることを覚えたのはこの頃だったと思う。毎日、給食を終えるなり図書室に駆け込んだ。読書に熱中するあまり、本棚の影で授業が始まっていることにも気づかず本を読み耽ったのが、私が始めて授業をさぼった思い出だ。その調子で図書室を開拓し、私は年間で20枚以上の図書カードを消費し、登下校の最中も歩きながら本を読んでいることで先生に怒られ、一年と少しが過ぎる頃には図書室の本は大体読んだと豪語するまでに至った。
それでもまだ読む本を貪欲に求めた私は、父親に面白い本を尋ねた。本の世界はあまりにも広く私の前に広がっていて、私はまだ、指針がなくては進むべき方向が分らなかった。父は私に「ロビンソンクルーソー」を勧め、それを私が気に入ったとみるや、次々に本を教えてくれた。これは後に私が入り浸ることになる図書館のものだったが、この時の私はまだ図書館を知らなかった。「二年間の休暇」「トムソーヤの冒険」「月面旅行」「地底探検」、冒険もの、漂流モノにはまったのがこの頃だった。
五年生になって、私には新しい友人が一人増えた。彼の影響を受けて、私は今度はSFの世界にのめりこむことになった。タイムマシンものよりも、謎のウイルスの話、宇宙人よりも、突然変異体が暴れまわる話が好きだった私を、彼が笑っていたことを覚えている。最も印象に残っているのは植物が突然人を襲い始める話で、何故か最後の部分だけ落丁していて読むことができなかった。そのせいで今でも覚えている。
六年生になってようやく、私は図書館という広大で未知の宝の山に足を踏み入れた。ここで赤川次郎にのめり込み、やっと私は、"作者で本を選ぶ"という指針を手に入れた。今までSFであればSFを、無人島ものであれば無人島ものを、とジャンルで開拓していたことに比べて、作者、という指針は非常に分り易かった。何より図書館は作者ごとに整理されていて、端から読んでいくのにちょうどよかった。私は弟の分のカードも使い、12冊借りては読み、翌日また12冊借りては……ということを夏休み中繰り返した。たまに別の作家の本に手を出し、それが面白ければその作者の別の本も…というように"あ"から順に私はじりじりと侵攻していった。
あの頃むさぼる様によんだ赤川次郎の面白さを、今ではもう理解することができない。けれど棚ひとつを埋めつくす赤川次郎の著作を眺めながら、少なくともここに棚ひとつ分の読む本がある、と奮い立った胸の高鳴りはしっかりと覚えている。赤川次郎や森村誠一や筒井康隆といった、あたるとデカイ作家は、あの頃の私には本当に偉大な存在だった。その分、寡作な作家は私の包囲網からはすっかりと抜け落ちていた。
穴を埋めてくれたのは、母だった。母は私に恩田陸をすすめ、若竹七海をすすめ、服部まゆみをすすめた。それらの少しマイナーで著作の少ない作家の作品は私を魅了し、私は父より母を頼りにするようになった。母は次に、綾辻行人や西澤保彦をすすめ、有栖川有栖を見切っていた私に、江神先輩シリーズを読ませて改心させることに成功した。いわゆる推理小説にはまったのがこの時期、中学二年から三年にかけてだったと思う。
母からは面白い作家だけでなく、"賞で選ぶ"という新しい指針も教えられた。母のお気に入りはメフィスト賞と日本ファンタジーノベル大賞で、私が講談社ノベルの新刊を全てチェックする、という蜜月の日々を一時期過ごしたのは、このせいだった。
中学を卒業する頃には私はいっぱしの読書家になっていた。最早教えを請わずとも、本屋を回り、タイトルを眺め、新たに開拓することができるようになっていた。けれど、書くスピードの方が確実に遅く、読む本はいずれ尽きるのではないか、という思いが頭に時折浮かぶようになったのもこの頃だった。
そんな思いを裏切って、高専に進学した私は新しい世界を知った。ライトノベルというその手付かずの場は、まだまだ広く私の前に残っていたのだ。コバルト,電撃,スニーカー,ビーンズ,ホワイトハート,デュアル,富士見……毎日学校帰りに本屋で一冊読破する、という本屋に迷惑な習慣を身につけたのはこの時で、毎月いっぱい買ってるのだからいいではないか、と自分の中で言い訳していたような気がする。当時バイト代は半分近く本代に消え、年間30万に届こうという勢いだった。今思えばあれが最後の、輝かしい読書の思い出だ。銀河英雄伝説を一気読みして泣いたことも、グインサーガを一週間で既刊読破し、読む時間と巻数が反比例していることを嘆いたことも、銀の海金の大地を捜し求めて古本屋を回ったことも、本当に懐かしく幸せだったと思う。
今ではもう、好きな作家の新刊と一部の賞の受賞作品をチェックするだけで、何も新たに開拓しなくなった。開拓する余地も、なくなってしまったように感じる。今でも本は変わらず楽しく、面白いもののままだ。それでも全てをかけてのめりこむような読書はできなくなってしまった。
まだ海外作品と古典が残っている、そう思うこともあるけれど。それに手を出すのは隠居生活に入ってからになりそうだ。
心の持ち方をいう。
バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足ではなく
青春とは臆病さを退ける勇気
やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うときはじめて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。
苦悩、恐怖、失望により気力は地にはい精神は芥(あくた)になる。
60歳であろうと16歳であろうと人の胸には
驚異にひかれる心、おさな児のような未知への探求心
人生への興味の歓喜がある。
君にも我にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美、希望、よろこび、勇気、力の
霊感を受ける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ
悲嘆の氷にとざされるとき
20歳だろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり
80歳であろうと人は青春の中にいる。
こういう文章は忘れた頃に読むとハッと眼を覚まさせてくれるんだよな。
優しくて、賢くって。とても綺麗で。
20歳超えてブラも片手で外せないなんて信じられない。私に自発性を期待されても困る。
汚物をみるような目で、心底哀れむような目で、僕はそういわれた。
ぼきん、と僕の中で何かが折れる音がした。
そうか。協力は求めてはいけないんだ。愛情なんて求めてはいけないんだ。
僕は少ない学生生活の残りを全てブラのホック外しに費やし、一流と言われてもよいような領域に入った。
そして、なけなしの金のほとんどをブラに費やした。
そうか。やっぱり彼女のいった通りだった。とても簡単なことだったんだ。
それから、お金を使うのが惜しくなった僕は、適当に女を探した。
なるべく効率を上げるためには、弱い女が良かった。
部活帰りのくたびれた女子高生や、買い物袋を両手に提げた人妻や、へべれけに酔って足下の覚束ない女子大生。
みんな、簡単に僕に背後を取られ、僕にブラを外された。
僕は人間の弱い部分を知っていた。
自分がとても弱い人間だったから、どこをどう揺さぶれば体の軸が揺れるのか熟知していた。
少し揺さぶり、よろけてこけそうになったところに、そっと手を伸ばしてブラを外せばそれでよかった。
僕があのときや、あのときに、そうできればよかったことを実行すれば良いだけだった。
どんどん弱い人間を効率的に狙って、学習した。そのうち、大抵のブラは外せるようになった。
他人の万能感をへしおるのはとても楽しかった。強い人間になれた気がした。
見逃してください。ひどいことしないでください。私を犯さないでください。
僕は首を縦にふって立ち去った。
最初はとても自分が何をしたいのか判らない変態に思えて何度も何度も吐いた。
けれど、じきになれた。だってさ。僕にトラウマを抱かれても困るだろう?
強い人間には運もよってくる。襲撃も順調にいき、僕はますます強い人間になった。
あるとき、街で僕は彼女に再会した。
僕にトリンプをすすめた女だ。
色々話をしていたが、結局のところ、たくさんの男と付き合い、女を磨き、理想の男を手に入れたと言う成功譚だった。
そうか。と、僕は思った。理想の男なのか。
僕は自分のブラの中から、できるだけ可愛いブラを選び、彼女の男に送付した。
可愛いブラは最初はいぶかしがられたが、僕の誰も見ちゃいないぞと言う手紙を読むと、おそるおそる彼女の男はそれに手を伸ばした。
男はすぐに可愛いブラを着けた。僕はそのときの写真を撮って、それを彼女に送りつけた。
なんだ。彼女の試行錯誤と努力で手に入った関係は、そんなものだったのか。
それから、僕は彼女の背後にとても静かに立った。
彼女は僕にブラを外され、僕の足下に倒れた。
資金が増えてよかったと僕は思った。
彼女がブラをしなくなった。
彼女のブラを狙うのにも飽きてきたので、僕は彼女にさようならを言うことにした。
つきまとわないで下さい、後ろに立たないで下さい、もうやめて下さい、ブラを外さないで下さい、全部ホックが壊れちゃったんです。
どうか、どうか。
彼女は僕が口を開くより先にそう言った。うーん、そうなのか。
僕は言った。
あのね、僕に恐怖や警戒心を抱かれても困るんだよね。
ブラを外されたくない?簡単なことだよね。
「ニプレスを買え」
d:id:Maybe-na:20070526:1180191039によれば、最近のオタクは純潔とか貞操とかを大事にするそうで(そういや、何かエロゲのヒロインが処女じゃなかったとかで、オタクたちが大騒ぎしたことあったよね)、でもd:id:kaien:20070527:p1によれば、オタクは相手には純潔を求めるけど、自分は貞操を保つとかそういうことはしない存在なんだそうだ。
その価値観ってどーなのよ?、という問題もあるけど、それ以上に僕が気になるのは、何でそこまで、彼らは、そんなに自らのセックス技術に自信を持てるのかなぁ?っていうこと。
僕は童貞だけど、正直セックスというものに対してすごい恐怖を持っている。まぁ、正直これからの人生において、僕は、誰も僕も性愛的な意味では愛さないだろうし、誰も僕をそういう性愛的な意味では愛さないだろうと確信してるから、はっきり言って杞憂以外のなにものでも無いんだけど、それでももし運命の歯車がどこかで狂って、誰かを性愛的な意味で愛し、セックスしようとするならば、それははっきり言って恐怖以外の何者でもない。そしてその恐怖は、相手が処女であるとしたら、更に増大する。
だって、僕はセックスの時に何をどうすれば良いかとか、まるで知らねーもん。経験が無いんだから。
もしこれで、相手が経験豊富な女性だったら、例え僕がそういうことを何も知らなくても、何とかなるかもしれない(いや、それでも僕は恐れるけど)。でも、相手が僕と同じように何も知らない女性だったら、正直僕はセックスが出来る自信は全くない。
だから、僕はむしろ自分は童貞を守り続け、そしてもし何か万に一つの可能性でセックスの機会になったとしても、相手は絶対経験のある女性の方が良いと、そう考える。
そして、そういう考えの僕から見ると、「俺は色々な奴とセックスしたいけど、相手は純潔が良いなぁ」とか言うオタクは、その価値観が許せる/許せない以前に、何でそこまで自分のセックスに自信を持てるのかが、疑問なのだ。
実際に最初に挙げたような価値観を持ってるオタクが居たら、こたえてちょーだい:-)
セックスについては分かんないのなら、「セックス」を「恋愛」という風に置換して読んでもらっても構わないです。それでも意味は通りますし、恋愛に対しても僕は同じ事を考えていますから。
存分に口説け。
つーか許可貰え。どちらかというと嫌いな女よりそうでもない女のほうが多いはずだ。
バスの出入り口に一日立って、妙齢の女に「ホテル行こ」と言った男がいたらしいんだが(都市伝説の類なのかもしれない)、100人中98人には殴られたそうだが2人とは出来るんだそうな。
はっきりいって、殴られる覚悟さえしてくれれば、そして万一の男性恐怖症の場合を考えた距離を取っていれば個人的にはこれは構わないと思う、ホテルには行かんが、いい根性だ、と正直思う。
在学中に、うちの中学校で起きた事件だ。
音楽教師と男子生徒が卑猥な行為に及んでいたという事件。男子生徒は同級生であり、たまに一緒に帰ったりする友達だった。事件は音楽準備室で行為中の二人を、生徒が目撃するという最悪の形で発覚した。
一気に話は広まり、他クラス他学年の人たちが、相手の男子生徒の顔を見ようと、教室の扉の前に集まるようになった。
そんな騒ぎへの学校側の対応は、教室前の塊を教師が声を出して散らすだけという温いもので、当事者の男子生徒は好奇の目とからかいに耐えられなくなり、すぐに不登校になった。
音楽教師は校内の騒ぎに巻き込まれる前に、学校から姿を消して、そのままずっと見ることはなかった。
私はと言うと、騒ぎを静観しながらも、事件の概要を聞いて、私と彼に関する二つの事柄を思い出していた。
一つは、放課後に彼と二人でいて、彼が離れたところにいた音楽教師に視線を移し「あそこ真っ黒なんだぜ」と私に耳打ちしたこと。その時の私は彼の視線の先に音楽教師がいたことは認識したが、「あそこ」が何を指しているか理解できなかった。
二つ目は、音楽教師が顧問している演劇部に彼が所属していたこと。といっても幽霊部員だったのだが、彼は音楽教師に演劇部に入らないかと誘われて入ったと言っていたのだ。その勧誘は生徒一人一人の歌唱力を試験するテストの最中に行われたという。テストは音楽準備室で教師と生徒の二人だけで行われる。私は音楽教師が個人的に彼と親しくなるきっかけを作るために、勧誘したのではないかと推測する。
そして、その音楽テストでの勧誘は私にも行われたのだ。音楽教師は私の歌唱を不自然に褒めちぎり、自身が顧問を務める演劇部に誘った。私は演技に興味はなかったので断ったが、今にして思えば、歌唱力を誉められたのは人生であの時だけだし、歌が上手いからと演劇部に誘うのは何だか辻褄が合わない。もしかしたら音楽教師は、私にもモーションをかけようとしていたのだろうか? 考えすぎなんだろうが、もしからしたらと仮定すると、他人事だったこの事件が途端に恐怖を帯びてくる。一歩間違えれば事件の当事者は私だったかもしれないのだ。
教師の誘惑と自身の煩悩がゆえに、彼の学校生活は破壊された。友人関係等を、リセットせざるをおえないところに追い込まれた。両親との関係も変質しただろう。人生の軌跡に大きく刻まれる分岐点だ。今、事件から長い月日が経つ。現在の彼にとってこの事件はどのように位置付けられてるんだろうか。「良い思い出」なのだろうか「苦い思い出」なのだろうか。
しかし、いくら考えても結局は「でも、セックスしたのは羨ましいよなぁ」と思うのが正直なところである。
http://anond.hatelabo.jp/20070616150253
ちょっと違うと思う。オレも、一回なんかで実写系のソレを見た時、マジで吐きそうだった。三次映像でそれを楽しむ(というか性的嗜好にする)人がいるというのは確かによく分からんかった(否定したいわけじゃない)。
今考えてみるに、それって問題は視点の差なのかな、って思う。三次のレイプ物って「襲ってる側」あるいは「傍観者」視点が多い気がして、それがどうもダメ。虹だと「襲われてる側」視点だったり、あるいは襲ってる側視点でも明らかに描き手は襲われてる側に感情移入してるケースが多い感じがする、それがいいんじゃないかな。
たとえば可愛いオニャノコが汚いオヤジにレ○プされるシーンとか、果てしなくオヤジを気持ち悪く醜く描いた方がエロい感じがするのは、その方が「襲われる恐怖」を「襲われる側」視点からリアルに体験できるせいだと思う。つまり元増田もオレも「ヤラれる側に感情移入するという趣味」の持ち主で、それが「襲う側」視点の三次への違和感になってると分析。個人的にはそれで納得できる感じ。マッチョなヤツ、嫌いだしな。
エレベータ内で怖い思いをした経験があると、どうしても警戒してしまうというか、
不自然な振る舞いをしてしまったりするって事もあるんじゃないでしょうか。
会社のエレベータもマンションのエレベータも、密室という点において同じなわけで。
また同じような目に遭うのでは、という恐怖感と、そのように警戒している自分の態度は
たまたま乗り合わせただけの大多数の害意のない人間に不快感を与えるかもしれない、
という懸念から、私は一人のときは出来るだけエレベータは使わないようにしてます。
12・3階くらいなら躊躇なく階段のぼるよ。
警戒心ていうか敵意むきだしにしたような感じで乗っている方(男女両方いる)を見ると、
「あー、私も他人から見たらあんなかんじなのかな・・・」と心配になりますが、
背中を向けない程度のアレは勘弁してやって欲しいなとも思います。
ゴルゴも「俺の後ろに立つな」言うてますし。
そうじゃなかったら、交通事故の被害者が示談するときなんかにかなり困ります。
正当な権利行使の枠を超えてしまうと、脅していることになるので脅迫罪が、
それによって金銭の交付を受ければ恐喝罪が成立する余地があります。
ただし、こんなバカバカしい話、警察も取り上げないと思いますがね。
逮捕の段階に裁量はあるし、起訴の段階でも裁量はあるし、裁判でだって裁量はあるんです。
まあそういう人が、相手に名誉毀損だ損害賠償だと訴えてるのは滑稽ですね。
そんなことより噴飯モノなのが、事前に訴訟すると予告しちゃってるところ。
なんで相手に防御する機会を与えてるんだよw
いきなり訴状が届くっていうのが、恐怖を感じさせていいんじゃねーかw
訴訟の場はそういう意味じゃノールール、不意打ちして出し抜いてナンボだよ。
手続保証なんて当事者が考えることじゃないし、そんなスポーツマンシップ持ち出して負けたら世話ないし。
>まさか本当に弁護士使わなきゃいけなくなるとは思ってなかったよ
>うざすぎ、まじで勘弁して欲しい。
「俺、今日3時間しか寝てねーんだよ、マジねみー」とか周りに言ってくる奴が大人になるとこうなります。
※追記
バカが釣れたので追記。
ずいぶん歯切れが悪いですね。罵倒も度が過ぎると罪に当たることが分かって萎縮してるんですか。
名誉を守るために訴訟するとかおっしゃってますが、勝訴してこそ名誉が保たれるのではないですか。
負けたら名誉回復なんて絵に描いた餅です。
それなのに勝訴の可能性を放棄する行為を正当化するなんて意味不明です。
正々堂々とやるのがいいだなんて、まったく愚鈍な小市民の訴訟観ですね。
小市民というか、訴える訴える言って、まったく大変だぜなんて言ってるあたり精神的にガキ。
一連の書き込みを見て、本棚の奥から村上龍の『オーディション』の文庫版(幻冬舎文庫)を手に取った。
斎藤学が解説を書いているんだが、当時読んで印象的だった言葉を思い出して、それを読もうと思ったから。
彼女たちは頼りなげで、神秘的で、弱々しくて、それでいて愛に飢えていることを全身で訴える力を備えている。こうした女性に弱い一群の男たちがいるところから、この恐怖劇が始まる。彼らは本質的なところで自己評価の低い、だからこそ人に頼られることを生きがいにしているような男たちである。彼らは、彼女たちに魅かれ、彼女たちの苦境を救い、その一部は結婚にまで至る。こうした男たちは、実はナルシシスト(自己愛人格者)である。彼らの一見したところ利他的に見える行動は、他人を用いて自己評価を高めたいという、自閉的で自己愛的な動機に発しているからである。
(中略)
考えてみると、夫婦関係とは子供返り競争のようなものである。居酒屋のアル中二人の関係に良く似ていて、先に酔い潰れた方が勝ちである。負けた方が金を払ったり、酔った者を家まで運んだりする。
(中略)
最も稀なのは、親密でありながら対等な男女関係が、結婚後も維持されているという場合である。成熟した大人どうしの関係が、長年にわたって続くためには、一方が他方の子どもになろうという野心が、意識的、意志的に排除されていなければならない。だから、こうした二人は、二人ともどこか寂しい。それで良いのであって、大人とは、寂しさと共存して生きられる人のことである。
俺はかつてやはりそういう女性に振り回されることを自ら選び、共依存の関係となって、二人で手首の同じところに傷を作ったりしたことがあって、けど、ちょっとしたきっかけから俺が彼女に振られ、そしてその二週間後に彼女が泣きながら俺に電話してきたときに、何か憑きものがすっと落ちたかのように冷静になって、「こういう繰り返しはもうやめにしよう」と言って彼女との関係を本当に終わりにして、それ以来、誰かを救うことなどは不可能なことであって、倒れている人に手を差し伸べることはできても、立ち上がるのはその人自身の力であり、俺の手によって立ち上がらせようとしても一緒に倒れるだけだということを悟り、そして、そうした誰かを救いたいという思い(引用部にあるように、まさにそれは俺の弱さが為すものでしかない自己愛なのだが)を捨て、自分の手の短さを知り、共依存として誰かを好きになるのではなく、お互いに独立した一個人として尊敬と愛情を持って一生を共に過ごすような関係をいつか持てればいいと生きてきた。
が、そんな字面だけの理想を体現するのはほんと難しいものだなと、最近プライベートが上手く行かないことで思い知らされている。いっそ憎めればいいのにと好きな人のことを考えたのはいつ以来だろうと過ごす日々。自分の弱さを認めて受け入れて、その上でそれに甘えることも開き直ることも自己否定して強がることもなく、ただ全てをあるがままのものとして自然と生きるというのはつくづく難しいものよ。
ベジタリアンに肉は太るリスクはあるが栄養があるから食えなんて言ってるようなもん。まさしく暖簾に腕押し。
ピルについて深くは知らんが、避妊作用があり、規則的に摂取して体に影響がないって方がおかしいよな。
アメリカの肥満の原因の一つはピルと言われていて、脂肪が溜まりやすい体質になっていくらしい。
そういうピルの飲みすぎで腹に脂肪が溜まった風俗嬢もけっこう多いよね。
もし彼女が妊娠への恐怖のあまりに過剰対応して体壊すのはあまりよろしくないと思うのが男心だ。
生でやりたい気持ちも分かるが、きちんとした知識とコンドームで90%避妊は出来るんだ。残り10%は運命の子だ。
1,写真に撮られるのを極度にいやがる。
2,風呂に入らない。髭を剃らない。
3,食べ物の清潔度が極度に気になる。
4,激しいリズムが好き。
5,武器好き。ただし、使えない。
6,奇妙な丁寧語をしゃべる。
7,会話の基本は自慢合戦。
8,視点がひとつでしかものを考えられない。
9,みんな考えることは同じだと思っている。
10,思考に時間軸の要素が乏しい。
12,感情移入が激しい。
13,気持ちが離れるときは一瞬。アンチに早変わりする。
15,ふだんは温厚そうに見えても、突然切れる。ただし、暴力には走らない。
16,批判好きだが、打たれ弱い。
17,自分が恥ずかしい。
18,かたくな。
19,明文化しないとやっていいことと悪いことの区別が付かない。
20,状況によらず同じ基準で判断する。
21,大岡裁きがなぜ好かれるのか理解できない。
22,客観が、対立する意見の中立点だと思っている。
24,きりのいい番号が好き。
25,個別例を一般化するのが好き。
26,コンピュータの機能にたとえるのが好き。
27,曖昧な感情に乏しい。
28,地位、階級に敏感。
私は作家なのだが、作家という職業について日ごろ感じていることを書いてみようと思う。
誰にも何も教えてないのに「先生」と呼ばれるのにもそれが現れているし、職業を言うと「すごいんですね」みたいな反応(まぁ、そんな奴は誰にでもそうしてるのかもな)。
エッセイストとかいう肩書きの人間が文化人・知識人として扱われているのを何度となく見た。
ワイドショーでコメンテーターをやりだしたりするともう最悪で、まるで第一人者かのようにしたり顔でコメントしては馬鹿面をさらけだしている。
君たちが知識人面して出ることによって、本当に知識をもっている専門家が発言の機会を失い、実のある提言が出てこない状況になるということがわからないのか。
まさか自分が専門家であるなんては思ってはいないだろうね?
君たちは学者じゃないのだよ! 文章で飯を食っているというだけなんだ! 黒いシミのついた紙の束を売りつけているような人間が奢るんじゃない。
中高生のいじめ自殺についてこれ以上偉そうに何か言うんなら、私が君たちを虐めてあげるのでさっさと自殺してください。
さらに思うことは、学生時代の同窓生に再開した際に、作家をやっていると言うと羨ましがられることがよくある(単なる社交辞令か?)。
私は学生時代から「作家になりたい」と口にしていたから、夢を叶えた人間に見えるのだろう。
好きなことを職業にして、時間を自由に使えるのは羨ましく見えるかもしれない。
だが、ミュージシャンなどのほかの職業はわからないが、作家は全く羨ましがるような職業じゃないと断言できる。
年収300万で、その後について何にも保証が無い生活(もちろん、たくさん稼いでいる人もいる。中村うさぎなんて、糞女のグロテスクなプライベートを書き連ねているだけなのに、年収は何倍も上だ。ちなみに自慢にもならないが、私は中村うさぎに言い寄られたことがある。自身が前に着ていたお古の服をプレゼントしてきた。よくわからん)
雑誌連載だっていつ打ち切られるかわからないし、急に雑誌自体なくなることだってある。
たった一行書くのに半日苦しんだり、締め切り前に精神が壊れたりする割には、快感なんて書店に並んでいる自分の本を眺めるか、好意的な感想を読むことくらい。
インターネットで自分の名前を検索でもしたら、もう大変で、落ち込む材料がそこら中に転がっている。
私は自分を誉めている文章をネットで見つける度にブックマークして何度となく読み返し、精神を安定させている。
「作家になりたい」という人間がいたら「やめなさい」と私は忠告するだろう。
2ちゃんとかでよく「うわあああああ」見たいな絶叫コメントがつくこと。
それは「はーい、二人組みになってー」
言うまでもなく、小・中学校でのグループ決めにおける、先生のセリフだ。
これをきいて「うわああああああ」になるのは、あぶれる恐怖のセリフと取れる。
振り返ってみるに、二人組みになってあぶれた(あるいは、あぶれそうになっていた)人は、そんなにいない。
30人のクラスだとして、だいたい5・6人くらいじゃないだろうか。
なのに、ネット上ではこんなに一般的なネタになるのはなぜだろうか。
潜在的には、誰もがあぶれる恐怖を持っていたのだろうか?あまりそういう風には思えない。
ひとつの説としては、そういう人たちは大人になって非コミュになるので、ネット上に流れ込むことが多く、
結果としてネット上で一つの大きいクラスターを形成するということだ。とくに、2ちゃんねるで。
ここで私について話そう。何を隠そう私は、クラスの5・6人、「あぶれがちな人」だった。
しかし私は非コミュではない。20代後半の今も、当時も、仲良くしている友人はきちんといた。
むしろ、絵がうまくてそれなりにしゃべれた私は、どちらかというと「クラスのメインキャラ」にいたように思う。
だが2人組みに難なくなれる人たちと私を分かつものがある。私は複数のグループと横断的に付き合っていた。
私を題材にしているので、どの程度一般化できるものかわからないが、
群れることを好まない、もしくはどのような人ともある程度楽しく付き合えるスキルがあるがゆえに、
2人組みになる場面ではあぶれがちになってしまう人というのが存在するのではないか。
他人から見たときのその「浮気性的な所在のなさ」が、二人組みになったときに露呈する。
複数コミュニティを横断できる軽やかさが、関係の濃さを求められたときに裏目にでる。
いまでもそうだが、私は特定の「仲良しグループ」にはいない。
いくつかの仲良しグループ的な人たちと、横断的に、少しずつかぶる部分が自分の中にあり、
それぞれのグループと少しずつ付き合っている。これを本質的には孤独ととるか、自由ととるかは本人しだいだろう。
そして、私はネット上に「二人組みにさせられると絶叫してしまう人々」が私と同じなのではないかと思い、
ある意味彼らに深い共感と、私だけではなかったという安堵を覚えるのである。
http://anond.hatelabo.jp/20070605155255
このエントリーの増田女、酷いご立腹だがなんかあったのだろうか?
釣りかもしれないが私なりに思うことあったので書いておこう。
さて本題だが、男だってオスという生物として生きてる以上、性的な見方を排除して付き合うってのは不可能だろう。
性的に見るって言うのは、胸とかケツを見るだけじゃなくて、顔や体つき、仕草やファッションなども含めたトータルな見方のことね。
男みたいな風貌や性格の女であれば、男が性的な関心を持つ可能性がぐんと低くなるが、
『私は女らしく生きたい』みたいなオーラバリバリの奴は多数の男が当然性的な視線で少なからず見ることになる。
女としての記号(スカートとか香水とか髪型とか)を極限まで排除して、男と際限なく近づけば性の対象としての視線はなくなるだろうけどな。
何れにせよ個人差の激しい話なので一元的に語れないけど、
男なら、盛りの付く時期というのはあるので、そのときはまさにノイローゼのごとく女の性的記号・象徴を追い求めてしまうんだな。
その時期を過ぎても個人差はあれどその傾向はあるだろう。むしろそれをうまくコントロールできた奴か、先天的に性欲がない奴が
女を騙してモテるってだけの話。
とりあえず、性的にしか女を見れない男を嫌悪(=悪)としてしか捕らえられない増田女の心の狭さに絶望した!
ちなみに、男の股間は意識やスケベ心に関係なく勃起することは多々あるので、
もしこの増田女がそんな男を見て不快に思っているなら男の生理から理解し始めた方が良いね。
俺の場合、そのような現象にやたらと過剰に反応するバカ女が居て、逆に女に対して恐怖心と怒りを抱くようになったよ。
とくに仕事場とかだと女グループで変な噂たてられたりしてノイローゼ状態。誰もオメーになんか欲情してねーっつの。
と言うわけで俺の結論としては、男の職場に女が中途半端な集団でいるとロクなことが起きないので居ない方が良い。
男女完全に分離した職場の方が双方幸せになれるとおもう。男子校・女子校みたいにね。
もちろん割り切って2次に走るのも健全でよろしい。