はてなキーワード: 唯物論とは
みたいなそういう重苦しい権威主義に抵抗するにはどうすればいいのか
まあことヘーゲルに限っては単純に分量が膨大でドイツ語も(たぶんドイツ人にとっても)難しいとかそういう理由があるのは判るのであんまり正面突破しようとかは考えないんだが
笙野頼子がやってるのはひとつにはそういうことなのかもしれないが(もちろん世界的な左派の見直しの機運の中で、だが)ちゃんと『だいにっほん』買って読もうとしない自分はヘタレだなあと思う
『唯物論と経験批判論』に何が書いてあるか理解しようと思って『ハイラスとフィロナスの~』『反デューリング論』買ってきたんだが(ドイツ語も英語もできないので全部岩波文庫だ)どれも読める気がしない。いや反デューリング論はすらすら読めるけどなんか意義がわからん
政治と宗教を分けなければならないというのは、必ずしも普遍的な真理ではない。もともと、政治と宗教は一体のものだった。
ただ、キリスト教とイスラム教や、新教と旧教の対立によって、弾圧や戦争が絶えなかった西洋世界から出た、約束事に過ぎない。
東洋の宗教は、仏教にしろ、道教にしろ、日本神道にしろ、基本的に多神教であって、他の宗教に対して寛容なものが多かった。だから、大きな対立は無く、「政教分離」という考え方は生れなかった。
「政教分離」というのは、キリスト教が偏狭、または未熟であるが故の方便に過ぎない。
日本では、開闢以来、祭政一致が当り前であった。戦後、有無を言わさず政教分離を受け入れさせられただけ。
政教分離については、以下の文書に尽されている。
例えば、
6 「信教の自由」に関する問題点
第二十条のつくり方は、かなり混乱を呼んでいる。「学問の自由」と同様に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」だけでよいのであり、あとは法律でつくればよい。「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」というのは、もとは国家神道のことを意図してつくったものだが、条文を正確に読めば、天皇制自体も、これに当たる。
また、第八十九条は宗教の範囲を制約して縛るものである。「信教の自由」の下に言うならば、政治的な宗教も、政治的ではない宗教も、当然ありうる。「政治は、宗教的なるものを、一切、反映してはならない」というならば、それは唯物論国家である。
要は、信教の自由と政教分離規定が矛盾している、というのが幸福実現党の主張である。憲法が禁止しているからこの種の主張をしてはならない、とするならば、同様に憲法第九条の改正の議論もできなくなる。憲法の方が間違っている(というか、憲法自体が矛盾している)と言うこと自体は、違法でも何でもない。
それから、
2 憲法は何を守ろうとしているのか
第九十九条の条文は、憲法遵守の義務は国民にあるのではなく、公務員及び公務員の上にある天皇や国務大臣等が守らなければいけないとある。つまり、憲法は、主として権力者から国民の権利を守るためにつくられたもので、国民を縛りつけて、自由にさせないためにつくられたわけではない。
憲法を守らなければならないのは、支配者の側である。一般国民が守る必要はない。仮に当選して、議員として働くことになれば、その行動に於て憲法を守る義務は発生する。ただし、考え方や主張までは制限されない。
あと、よく、幸福実現党が天皇制を廃止を主張しているとか言う話も目にするけど、そんなことは一言も言っていないですから。寧ろ逆で、天皇制はあった方がよいと言っている。
天皇制自体は、何らかのかたちで遺しておいたほうが、日本の国にとってはよいだろうと思っている。ただ、外国から見ると、誰が元首なのか、誰が意思決定をするのかよく分からない。これが、日本が外国から信用されていない理由である。「内閣総理大臣に元首としての責任がある」と明確にするか、大統領制を敷くなどの、意思決定者をすっきりさせないと、日本という国は信用されない。
しかし、戦後日本の「宗教」に対する偏見は、抜きがたいものがある。信仰というのは、本来、地上で最も穢れのない、美しいものであるのに、全く逆のイメージを植え付けられてしまっている。GHQは、日本人のその驚異的な精神力の源を、信仰の力によると考えて、その背骨を抜いたのだ。信仰を持つ人は洗脳されている、なんて思ってるかも知れないけど、洗脳されているのは、無神論者の方なんだよね。
神仏は蔑むものではない、尊敬すべきものである。神仏の声を伝える正しい宗教家も、尊敬すべきである。これが世界の常識だと思う。
※ネトウヨの妄言なので、ネトウヨが嫌いなら読まない方が良いと思います。
(追記:当初、私自身が認識していたより、酷いことをいっているようです。ですので、読むと不快になる可能性が高いです。
基本的に、読まないことをお勧めします。削除しても、逃げたということで非難されそうなので、残しておきたいと思いますが)
連中の場合は、"情"が絡んでくるから厄介なんだと思う。
特に韓国人なんかは、"情"によって団結して、日本人を超えるみたいな考えもあるみたいだけど、事実は全く逆だと思う。
韓国人には"恨(ハン)"という概念があるんだけど、単に、"恨み"とかそういう次元を超えているらしい。彼ら曰く。
何が言いたいかというと、彼らは呪縛されている。つまり、呪われている。
具体的には、例えば、朝鮮半島は"半島"という地形が大元ではないかと思う。
三方を海に囲まれ、残りの一方が大陸につながっている。朝鮮半島の場合、日本に海上封鎖され、大陸から攻められたら終了。
同じような例として、スペイン内戦がある。スペインは、自国のあるイベリア半島につながっているフランスから攻撃を受け、イギリスに海上封鎖されるという逃げ道のない状態だった。その結果、血で血を洗う内戦。かなりのトラウマもの。ピカソがゲルニカを描いたり、ヘミングウェイが参戦したりしている訳だが。今だにそのトラウマは残っていて、最近だと、映画のパンズラビリンスはスペイン内戦を扱っていたのではないかな。
だから、"半島"というのは、基本的に呪われた地であり、韓国人は文字通り、DNAレベルで呪われている。<丶`∀´>←2ちゃんねるなんかで使われているこの顔が、その証拠で、大陸人(モンゴル系)に支配された証拠をDNAレベルで刻みつけられた。そう考えると、少し、背筋がゾッとするのではないだろうか。
(追記。上の記述は、一応、撤回しておきます。デリケートな問題ですし。ご不快になられた方、すみません)
ヨーロッパ大陸も、ユーラシア大陸から突き出た"半島"という見方も出来る。シベリアの遊牧民がたびたび攻めてきて、その結果、白人達はおかしくなってしまったという話もある。
映画の300(スリーハンドレッド)なども、白人対ペルシャで、ペルシャを禍々しく、妖怪かなんかみたいに描いている。アレは、白人のトラウマそのものだと思う(アラブ人はそれに反発したみたいだけど)。
それが、大航海時代の悲劇につながった。
300(スリーハンドレッド)に限らず、指輪物語(ロードオブザリング)も、スタ-シップトゥル-パ-ズも、バックトゥザフューチャーも、ロッキーも、白人は、"我々"と"彼ら"に分けたがる。
"我々"とは、キリスト教徒の白人、"彼ら"とは、宇宙人、未来人、ちょうの・・・いや、でも遠からずで、"自分たちとは違うもの"、滅ぼすべき敵、我々を支配するもの、我々が支配するものだったりする。
その役を、例えば、宇宙人や妖怪やロボットや、日本人なんかがやる。だから、白人が描く"彼ら"は醜く、異質で、おかしな存在だ。
(もっとも、"敵"を自分たちの写し鏡だとして考えると、白人はそのことを無意識的にも感じていると思う)
だから、日本人は、本当の意味での異世界、"ファンタジー"が描けないし、日本のファンタジー作品の住人は、容姿はどうあれ、中身は日本人ということになる。
白人の場合は、クトゥルー神話がその代表例だと思うけれど、本当に異質に描こうとする。
あと、白人でも、キリストを信じない共産主義者は、"彼ら"な訳で、80年代のハリウッドには腐るほど例がある。
(あっさり書きすぎたので、追記。多分、魂の存在を信じない唯物論者ということだからだろうか?日本人でも、唯物論者を理解出来ない人が多いかも)
それで、最初の話に戻ると、中国人は、儒教に呪縛されている。共産党全盛期に、共産党員が父親に笑ってしまうほど頭が上がらなかったという目撃談もある。
中韓人がなぜ、"情"に頼り出すかというと、彼らは彼らの世界しか持って無くて(中華思想。韓国も小中華思想)、主観(自分たち)しか存在しないから、他人の目を意識するということがあまりないので、構造と一体化してしまい、呪いに人格そのものが乗っ取られてしまうからだと思う。その結果、彼らは物事がよく見えなくなり、直情的になる。
でも、そんなに悲観的になる必要もなくて、最近は、中韓人も欧米の目を気にするようになってきたから、少しずつ状況は改善しているんでは無かろうか。
(中国のソース開示要請なんかを見ると、恨みはまだかなり残っているようだけど)
追記:
REV えさの付け方が甘め
反応早いッスね(笑)どの辺がそうだったか、ご指摘いただけると助かるんですが。
(もっとも、REVさんはいけずな方なので、教えていただけないとは思いますがw)
(再追記:ご返答、ありがとうございます。確かに、"支配された証拠"というのは誤解を生みそうですね。
結果的には、元々、朝鮮半島に住んでいた民族とは違う証拠にはなると思いますが)
yukitanuki ネトウヨの人なら賛同するのだろうか
どうでしょうね。私の個人的な発言なので、賛同する人もいるし、賛同しない人もいるでしょう。
私をレイシスト呼ばわりするひともいるだろうな、と思って書きましたし。
でも、呪いの構造を自覚しないと、不幸からは脱出できないと思うんですよ。これも個人的な経験ですが。
呪いと一体化して、人格を乗っ取られ、周囲に不幸をまき散らす例を何度も見てきましたし。
もっとも、日本語で書いた訳だから、彼らに私の考えを強制している訳でもないですし、する気もないです。
物知らずの面汚しでサーセンwwwww
私の妄言は、mobanamaさんの正論で粉砕していただけると嬉しいです。
なんとなく、語感がかっこよかったので使ってしまった面はあります。
ご指摘、ありがとうございます。
(以下、再追記)
サーセンwwwwww
これからも、みっともなく生きていきますよ!
comzoo 「日本人の性格」も「天皇」「武士道」「菊と刀」「敗戦」「戦後民主主義教育」とやらの呪いにまみれておるではないか。
その通りだと思います。
でも、日本人が、日本人のことばかり研究している現状に問題があるとは思いませんか?
外の文化と比較することによって、ある程度、相対的で、客観的な視点が得られると思います。
我々のどこが特殊でどこが外の人種と一緒なのか、それを考える必要があると思います。
(さらに再追記)
念のため書きますが、「呪いにかかっていること」と「不幸であること」は別です。
私の使っている「呪いにかかっている」というのは、「構造的に呪縛されている」ということであり、「不幸である」とは、自身の主観的な問題です。
ですので、「呪いにかかっている」からと言って、「不幸である」とは限りません。
相対的/客観的に、自分が/他者が「構造的にどう呪縛されているか」を認識することによることで、対処方法やその呪縛から逃れる方法も考えることが出来ると思います。
2・1 J-POPしょせんは演歌*2 暑苦しくて耳が腐りそう
2・2 ラジオは大人の子守唄 サテライト・カウンセラー 電波トランキライザー
2・3 雑音(壊れかけのradio?)の原因はスタッフの発するβ波であるということができる
2・4・1 眼を瞑りたくなるくらい 皆さんくそマジメに労働されてはる (摩擦力0)
2・4・2 彼ら/彼女らがインフラを支えている(や~る~~っ)
2・4・3 やや粗い が合理的な所作たち また一転繊細に システマティックに*3 (点!線!面!立体!)
2・4・4 それは自由をもたらす*4 とはよくいったもの つまり それ自体は正しい
2・4・5 唯物論と書きゃそれまで
3・1 CAD用PCで事務所デスクから世界発信するオレ …オレよ (テコ)
3・3 とどのつまり 5歩先位には自殺の2文字がちらつく 留まっているのは偶然か意思か 忘却か
3・4 ニヒリスト アナーキスト 分離派 カリスマ 留守番の小学生的孤独 独身貴族 王子と乞食 ジャニーズ系… いっちゃんカッコイイとこ取ってんねんけど まだなんか不満なのか おれは (反比例)
4・1 気になる所が皆無ってわけにもいかんが(お互いさま) 所長は そうである所以がある (剛体)
4・2 仕事場というのは 女工がいるのといないのでぜんぜん違う*5
4・3 少数精鋭の中小民間の 反力についてはどうなった (作用反作用)
4・4 (洗脳的 感染的 添削的 交渉的 部室的*6 仮想的 防衛的 高踏的 白昼的 内科的 実用的 欧米的 魔法的 友愛的 遊戯的 学問的 設計的) 設計術
4・5・1 明日夕方までに 小学校のトイレ*7の図面上げろ と*8
4・5・2 せやけど 黒地にカラフルに引かれる線分群は 星空に比較したくなるほどだ 「星空な設計図」
4・6・1 充分な打合せを地道に重ねることが大事 説明責任 聞き上手 手っ取り早くはいかない
4・6・2 「契約」の成立は決定的である 社会的承認を意味するから これで仕事は半分アガリとも言える 後半分は目と手の酷使だ
4・6・3 ここぞという場面でこそ 力を抜けなきゃやっていけない
4・7 とがれ もっともっととがらせろ*9 (デザルグ幾何)
5・1 いまさらながら 糖はすげー コンセントレーションがすげくなるから*10
5・2 これは人間 のみならず生物に必要なものである H2Oに次いでシュガー*11
6・1 オンでもオフでも肝要なのは「関係」である 「無関係」*12さえ
6・2 中途半端な「知り合い」以上に発展しない「関係」にはもうグッドバイしたい 真剣に友だちをつくらなければ
6・3 なれあいは本末転倒だと了解しておれば 大体大丈夫
7 サボリまくって帰れないから 沈黙する
ふと思い出したこと。
歩道を歩いていると、選挙が近いらしく、選挙カーが止まっていた。
立候補者は聞き役に徹しており、おじいさんが熱心に話していた。
おじいさんは語り続ける。いかに日本がすばらしいか。日本人は凄いのだ。
立候補者は苦笑いしながら、うんうん、そうですね、と頷き続ける。
俺は、無関心に通り過ぎる。
やがて、話し声は聞こえなくなる。
しかし、年を取ると似たような行動パターンになるな。
新聞の投稿欄で、熱心に世を憂うのは老人ばかりだ。
ある講演の質問タイムに、大演説をして講演者を苦笑いさせたおじいさんも思い出す。
不幸な男はナショナリズムに、不幸な女はスピリチュアルに走るという。
では、基本的に、老人であることは不幸なことなのだろう。
身近なところで自分が必要とされない不安が、世間への憂いにつながっているのかも知れない。
しかし、個人主義的唯物論的左翼思想みたいなものを語る知識人やエリートもやはり、どこか変だ。
違和感の中心にある物が、彼らの自分達の幸福に対する無自覚さなのか、彼らが自分達の幸福を維持するために
地位を活かしてその思想を広げるスタンスなのか、その両方かはともかく、彼らが自らの地位を維持するということは、
エリートカーストの維持であり、自分達に従う人々を敗北者のままでいさせるということだと思う。
若者も良い。自分に無限の未来が広がっているという錯覚も重要だろうから。
でも、構造的に全員が自分のようになれないということを知りながら、その思想を押しつけるのは欺瞞だと思う。
じゃあ、全員が幸福になれる道ってないじゃん!とは、多分、その通りで、心のケアとしての
ナショナリズムやスピリチュアルをある程度、適量を保って、検証しながら活用しつつ、
なんとかかんとか皆で生きていくしかないのではないか・・・。
おそらく、政治を熱心に語るおじいさん達は、日本人に生まれたことを誇りに思いながら死にたいのではないだろうか?
線香の匂いを漂わせているおばあさん達は、何を思って仏壇を拝むのだろうか?
自分が失敗した人生を送った場合、どんな思いを抱いて死にたいか。
最悪の状態に自分が耐えられるかどうか考えつつ、社会を設計するみたいな考え方があったけれど、これから、
その辺りを考えることが流行るかもな-、と何となく思った。
衝動的ではないタイプ(に見える)自殺についても、とっても同意。
実際、俺はかなりの唯物論者だと思うけど、それでもあの数日は「何かにとりつかれてた」としか表現できん。
とにかく「自殺するしかない」って思い込んで、飛び込んで半端に半身不随とかだと嫌だな、そもそも電車を止めたりなんかの迷惑をかけたりするのも嫌だな、そんなこと言っても家族とかには絶対迷惑掛かるんじゃね、そうだ自殺したとわからない失踪と区別できない状態なら少しはマシじゃ、誰にも見つかんない場所で服毒なんてイイね、どうやって毒を用意すんだよそこからバレるがな、んじゃ身近なものから毒を作ろう、と、バーッと暴走したあげくに山の中でニコチン水を煽って、「人間は吐く」と言うことを計算に入れてなかったおかげで未遂。いやいや、あの頃に硫化水素について知ってたりしてたら、絶対にやり遂げちゃってたね。
で、吐いてしまってしばらく山中でボーッとしてるうちに、頭の中が冷える。するとすっかり死ぬ気が失せてやんの。ほんと、精神の病気だね。かかってしまったら一段落付くまでは患者本人にも制御できない。で、「一段落付いた」時点で生き残ってればラッキー。たまたま俺の場合はどうやら急性かつ一過性の病状だったようだが、これが慢性だった人は繰り返すことになるんだろうな。
そうですね。それまでも、それ以降も、あのときほどマジで死ぬ気になったことはありません。ほんとに、あのときの一過性の流行病であったように感じます。多分、自殺で本当に死んじゃった人って、「たまたまそのときに一線を越えちゃった」んじゃないかなって、うーん、めっちゃ感傷的で主観的ですな。
もしルーマンの言うように、現代社会が機能分化した諸機能システムと、その内部におけるコミュニケーションによって特徴付けられるとするなら、私たちはもはや物象化と疎外についても、それを経済領域だけに留めておくことはできない(また、当然ながら、経済領域は「土台」なのではない)。したがって、疎外/物象化論はその他の機能システムへも敷衍される必要があり、それぞれの機能システムにおけるコミュニケーション・メディアにおいて疎外/物象化が論じられなければならない。たとえば、「愛」をめぐっては、そこからの疎外として「非モテ」が論じられているが、しかしこれは「愛」というメディアへと関係性の価値を物象化、物神化しているがゆえに生じる議論なのだ。多極化/疎外状況を捉え、象徴的メディアへ批判を加えること。それが今なお可能な「唯物論」だろう。
われ発見せり
かつて真木悠介が『現代社会の存立構造』においてサルトルや廣松渉を踏まえて指摘していたように、疎外と物象化は労働の出来事なのではない。一般的等価物としての貨幣への物象化とは、貨幣経済としての資本主義、そしてその下で生じる労働疎外という現象の別の名なのだ。この両者の根底には、紙幣への物心的崇拝が潜んでいる。
ところで、二クラス・ルーマンによれば、近代社会とは社会的機能の機能分化が徹底して行われた社会なのだという。この徹底した機能分化により、教育や政治、経済、法、宗教などなどといった機能システムはそれぞれ他の機能システムとは無関連に自律的に作動するようになった。また、こうした特徴を持つ近代社会にとって、「社会を維持すること」とは「コミュニケーションを維持すること」を意味するようになる。そして、このコミュニケーションの接続にとって重要な鍵を握るのが、コミュニケーション・メディアと呼ばれる特殊なメディアなのであった(主なものとしては、経済システムにおける貨幣や、家族システムにおける愛などなどがある)。もしルーマンの言うように、現代社会が機能分化した諸機能システムと、その内部におけるコミュニケーションによって特徴付けられるとするなら、私たちはもはや物象化と疎外についても、それを経済領域だけに留めておくことはできない(また、当然ながら、経済領域は「土台」なのではない)。したがって、疎外/物象化論はその他の機能システムへも敷衍される必要があり、それぞれの機能システムにおけるコミュニケーション・メディアにおいて疎外/物象化が論じられなければならない。たとえば、「愛」をめぐっては、そこからの疎外として「非モテ」が論じられているが、しかしこれは「愛」というメディアへと関係性の価値を物象化、物神化しているがゆえに生じる議論なのだ。多極化/疎外状況を捉え、象徴的メディアへ批判を加えること。それが今なお可能な「唯物論」だろう。
編集後記 今回の徹底議論のタイトルにある「スカラベ」は『マルドロールの歌』に由来すると同時に、等しく『中島らも列伝』に依拠する。太陽をころがして地平線に消えたスカラベは、暗闇のトンネルを抜けて、今はまたここにいる。永遠の不断製。生者と死者は分かたれず、反転されたパースペクティブにおいて過去はそのままで未来だ。※中島らもという作家は他者を知らない。彼に語りかけられる言葉は彼の言葉であり、またそれは私の言葉として偶然に開かれるページに飛来する。だからこう言おう――「私はスカラベは知らない。そして知っている。」※特集にあたって多大なご協力を頂きました中島美代子氏に感謝します。(Y.S)
ユリイカ 2月号 第40巻第2号(通巻547号)
発行人・清水一人
発行所・青土社
101??0051東京都千代田区神田神保町1??29市瀬ビル4階
電話・編集03??3291??2806/営業03??3294??7829
ISSNS 1342??5641
定価・1300円(本体1238円)