はてなキーワード: 命題とは
全員が全員元増田が言ったことに対して返信してるわけではなく、途中でいわゆる横、そのことについて別な角度から考えるとこう思う。という横にたいして、元増田の命題をもってきて、(横なのに)真だ偽だっていっているから、話がおかしくなってるんだと思った。
元増田と
よく判らないんだが、今のプログラマに求められてる仕事って「やりすごす」レベルじゃ絶対にダメって事?※と
テストの点うんぬんぬん
の関係は主旨だけ見ればそれぞれ横だと思うよ。
※に関してはすでに、就職云々じゃなくて、就職後の話にもなるし。
ただ、全体的な風潮としては、今までは活況で人が不足していたし、育成を前提に青田買いだったから、学歴偏重だったけど
今は不況で人が余っているし、育てる余裕がないので、即戦力重視にシフトしてるから、
学生は今までのエスカレーター式就職は無理で、泥臭い泥仕合の就職戦線になるって事だろうし
転職組は、本当にいままで積み上げてきた、人脈とかスキルとか実績とかが総動員で、会社の格とか名前とかが通じなくなった。
というおおよその傾向はあるとおもうし、だいたいみんな、だいたいなら、そんなことを言ってると思うよ。
ダメじゃないって、テストの点がよいってのは、主席とかそういうレベルのことを言うんだよね?
平均点とかは、テストの点がよいとはいわないよねぇ?普通というよね?
そこはOK?
のケースを何故無視するんだって事だよ。
主席クラスで学校推薦受けられて、落ちるというのがレアケースだからだろ?
違うというなら、ダメじゃないってどういう事なのか具体的に補足してくれ。意味が取れない。
『テストの点さえ良ければ就職できると思ってる学生』の言葉の意図を
テストの点が良い順番に上から就職できると思っている学生、という意味で発言しているなら、その命題に答えは、そうでもないから言うとおり
(真ん中ぐらいの点数で、下がいるからと、安心したら、下に抜かされたというケースはよくあることという意味)
だけど、
『テストの点さえ良ければ就職できると思ってる学生』の言葉の意図を
テストの点が良ければ、推薦が受けられるので、就職しやすいのは事実。程度(のあくまでも例で程度な)、という意味で発言しているなら、その命題の答えはわりとYesなんだから、まぁ4はいらんだろ。実際問題本当にテストの点数が良くて有名大学の主席なら、それほど就職はきびしくないだろと。
これはあくまでも例で
言葉の定義ではなく、発言者がどういう意図なのかが、まるでちがうから会話がかみ合っていないように見えてるのに
相手の意図の確認というフェーズを吹き飛ばして、自分が解釈したいように相手の言葉を解釈して
わかったよ解説してやるよ。
これは「(不況で求人が無いという条件の下で)ダメ⇒就職できない」という命題が真だっていう主張。
この命題の対偶は「就職できる⇒ダメではない」であって、元の命題が真ならこれも真、というのは論理の常識。
一方で、元の命題の逆命題は「就職できない⇒ダメ」であって、お前は、俺がこの命題を真だと認めたと思ってる。
しかしある命題の逆命題の真偽は、元の命題の真偽からは決定できない。これも論理の常識。
従って俺はこの命題については始めから何も言ってないわけ。
にも関わらずお前は「お前はこの命題が真だって言っただろ!!」と的外れなことをいつまでも言ってるわけだ。
中卒だって言うんなら謝るけど、高校出てるんなら問題だぜ。
逆・裏・対偶についてはhttp://www6.plala.or.jp/yottya/docs/ronri1.htmlこの辺でも読むといい。
今適当にググっただけだから、もっとわかりやすいのもあるだろうけど。
じゃあお前は結局どんな例を挙げたって納得しないんじゃないか。
ブラウワーである[要検証]。彼は、数学的概念とは数学者の精神の産物であり、その存在はその構成によって示されるべきだという立場から、無限集合において、背理法によって、非存在の矛盾から存在を示す証明を認めなかった[要出典]。それ故、無限集合において「排中律」、すなわち、ある命題は真であるか偽であるかのどちらかであるという推論法則を捨てるべきだと主張し、ヒルベルトとの間に有名な論争を引き起こした。[要出典] ヒルベルトの形式主義は、直接的にはブラウアの主張から排中律を守り、数学の無矛盾性を示すためのものと考えることができる[要検証]。
ブラウワーは「AであるかAでないかが分からない場合もある」を説明する例として、「円周率の無限小数の中に0が100個続く部分があるかどうか分からない」というものをあげていた。
あるとき、ブラウワーがこの話をしたとき、「しかし神なら100個続く部分があるかどうか分かるのでは?」という質問を受けたが、 ブラウワーはそれに対し「残念ながら我々は神と交信する方法を知りません」と答えた。
しれっと言う
憎いねぇ
ソクラテスの言葉に「無知の知」というものがあるが、本当に言いたかったことは
「知ってるとおもっていることが、実は本当は間違いであったことを知る」ことではないだろうか?
理由はペイオフで1千万円以上は返ってこないからだけではない。
一時は60円まで落ちたハンバーガの価格も、インフレや円安になった場合に、1個1億円になることもありうる。
こうなった場合、今まで一生懸命働いてためてきた1000万の貯金でもハンバーガ一個も買えなくなる。
世の中に「安全」というものはありえない。
すべてのものにリスクは内在している。
”より”安全を求めるということは、とどのつまり、起こりうるリスクに対してヘッジをすることなのだ。
つまり、
・円安のヘッジには外貨を複数もつ
といったところだ。
もう一歩踏み込んで考えてみよう。
市場は「効率的」である。ノーベル賞にもなったほど有名な言葉である。
これを端的にいうと、”まともな”商品であれば、リスクの分だけリターンが大きくなる確率が高くなるということだ。
ただ、リスクの分だけリターンもおおきいということを考えれば、購入のほうがリスクが高いので、
死ぬまでリスクがおきなかった場合にはその分だけ得だったということだ。
もちろん、定期の生命保険に入っていて期間内に死ななかったので損したということと同じことを言っているのではあるが。
購入のほうがリスクは高いというのは、下記の理由からである
・転勤リスク
・隣人リスク
なお、購入のほうが税金が優遇されるとか、有利な点もあることを付け加えておく。
リスクは分散することで少なくすることができる。
低リスク、低リターンのものをいくら組み合わせてもリスクはほとんど変わらないし、リターンも対して期待できない。
これにくらべてハイリスク、ハイリターンのものを分散させるとリターンの減少に比べて、リスクを大幅に減らすことができるのだ。
ここから導かれる結論は「効率的な」市場ではハイリスク、ハイリータンな商品を複数もつことが理にかなっているのだ。
個人向け国債は「低リスク、低リターン」の典型といわれているが、
円安リスク、インフレリスクを考えると、この商品は「ハイリスク」といえるだろう。
個人向け国債を買っている人はこのことをわかっているのだろうか?
おそらくわかってないというか、考えてないだろう。
ということは、買っている人(市場)が「効率的」ではないということがいえる。
「効率的」ということを突き詰めていくと、市場にゆがみがある場合に無リスクで利益だすことでができるため、
誰しもが争って利益を出す行動をするということだ。
利益に対して最短距離で行動しないのは効率的でない(=無駄)。
なぜ、人はこんな無駄の多い行動をするのか?
それは「無知」だからである。
正確にいうと、「物事の本質を理解できてない」のだ。
もう一度言おう。「無知ほど怖いものはない」
特定の事物を極力広めないようにするにはどうすればいいか?
「メジャーになると消費され使い古されてしまう」というアンチ消費主義思想の俺にとって、このことは重要な命題だ。
なるべく周知させない活動のことを仮に「逆宣伝」と呼ぼう。逆宣伝するには、どうしたらいいか?
これは実に難しい。なぜなら宣伝活動であれば、他者がどんなにあがこうと、ある程度のレベルまでは達成できる。
例えば、お金を沢山使うことで周知させたりできる。しかし、逆宣伝の場合、他者がクチコミなどで宣伝してしまうリスクがある。
いくら頑張ろうが、有志の手で周知させられる恐れがあるため、「いかに人々の宣伝活動を抑制するか」が上記の命題達成のためのサブ課題となる。
また、「情報を一定の会員の内部だけで流れるように囲い込むこと」も重大なサブ課題である。
ちょっと考えてみて欲しい。
いまの世の中はネットがあるため、ネットで誰かが晒す(ネットでクチコミすることをあえてこう呼ばせてもらう)ことで、
たちまち広まってしまい、良質なもの・興味深いものであれば、いとも簡単に周知されてしまう可能性がある。
その結果、我々が普段接している良い商品やサービスというのは、大多数が宣伝により周知され消費され使い古されたものである。
大衆の手垢のついていない、純粋な意味で良質な商品やサービスというものが皆無に近い。
ビジネスロジックに乗っかった、一般人の要求に迎合したような商品やサービスばかりで、まったく吐き気がする。
オカネや多数決に支配されるとワンパターンになるしロクなことがない。
よくネットの人が「オープンは正義」的なことを言っているけど、共有というと聞こえは良いが、ぶっちゃけそれ大衆化でしょ。
そりゃ学歴は欲しいよ。就職で有利になるし俺と同じ哀れな考えを持った連中から羨ましがられるから。でもそれも虚しい。
勉強だけなら働いてお金捻出して教材を買って独学でできる。勉強自体が楽しいならそうしていられるしプレッシャーも何もないからやめたいという気持ちも無くいつまでも続けられる可能性はある。勿論学校で強制させられてスキルを身に付ける事ができるという可能性もあるわけだが。
何でもそうだけど突き詰めていくとどうして生きているんだろうかっていう疑問に帰着してしまう。前述したんだけどそれが虚しいんだよ。
その疑問に加算集合の最初の元pをナンバリングしてそこから帰納的に導ける任意のnからQ(n)に対し¬Q(n)は証明可能でない。「¬Q(n)」は「最初の疑問から帰納された事象に対して生きている理由を導ける」と言う事だからω無矛盾な公理系。
これは証明も反証もできない命題だから虚しい。
あ、
死
ひ
ひいいいいいいいい
フェチは「自分の好み」をまず追求する。「相手」を余り考えない。自己完結型。
変態は、相手との関わり合いを追及する。それがどんな繋がりであってもいい、いや、むしろ繋がりが変であるほどいい。「○○プレイ」は、ご主人様と奴隷がいて成り立つ。
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例えば靴下。
主人公が少女の靴下をスーハースーハーしちゃうエロ漫画を描く、というのが命題だとする。編集者から「もう次の君の読みきりは靴下って事で決まったから」と断定されたとする。
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「変態系」だと、まず困るところから始まる。
靴下?靴下で俺は変態行為が出来るのか?オナニーできるのか?いや、普通じゃ出来ない。普通だと無理だ。
なら、どうする。どこまで堕ちれば俺は靴下と性を結び付けられる?と妄想する。
まず、靴下の匂いをかいでスーハーしてる自分を思い浮かべる。何故スーハーしてるのか?好きな女の子の靴下だから、と補完する。
自分が大好きな少女。少女の靴下。でも、単に少女の靴下が手に入っただけじゃ、それでスーハーなんてしない。
じゃあその少女がフェロモン体質で、靴下からでさえもフェロモンプンプンで嗅いでるだけでイッちゃいそうになる靴下なんだ、と思う。いやいや、それだと靴下モノじゃなくフェロモン少女モノになりそう、とりあえず思いつかなかった時の保険にしよう、と思い別ルートを模索。
例えばその少女がイケイケSで、こちらがMで、命令されるとか。「靴下の匂いを嗅ぎながら私の前でオナニーしなさい」とか。ああ、俺は靴下なんかでオナニーしちゃう変態なんだ、少女に命令されてこんな卑しい事を、なんて考える。前より「靴下モノ」に近いな、これもSMメインで靴下サブだから保険にしておいて、別ルートだ。
と、様々な事を考える。
圧倒的な妄想の量、その中からやっと1つの漫画のストーリーとして使えるのを持ってくる。
これは妄想の量を自慢しているわけではない。
靴下1つで変態行為を行う事に対して、裏付けが欲しいのだと思う。そして誰かを想っていたいのだと思う。
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「フェチ系」はそれが必要ない。
「靴下で欲情なんて当たり前じゃないか」という、悪い言葉で言えば思考停止気味な一言で片付ける。
だから妄想も底が浅いというか「少女の靴下スーハースーハー最高!」な人間がそれをただ描くだけなので、妄想がそもそも要らない。
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どちらがいい、というものではないかも知れない。
俺自身が妄想タイプなので、自分とは違う生き物のフェチ系を排除したい、と幼稚に思ってるのかも知れない。
ただ、俺には、フェチ系の言ってる事は「底が浅い」ように感じてしまう。
そして時代が経つ毎に、変態系漫画家は減っていく。フェチ系漫画家が増えていく。ノレない話が増えていく。
時代の多様性、と考えればいいのかも知れないが、何か納得できない。
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好みのシチュエーションやら台詞回しやらを追求し、妄想を深くしなくてもその台詞回しだけでイケちゃうというタイプをフェチタイプ。
とにかく細部まで妄想しないと気が済まない、最終的に描かないかも知れないけどその世界である事は一応全部妄想してから描く変態タイプ。
と分けられると思う。
例えば部活メンバー全員で一斉下校してた時に、とあるカップルがいきなりキスしだしたりする場面があったとしよう。
そこで一様に「えーっ!?」と全員で驚いてしまう、それがフェチ系。とにかくキスが一番名目であり、キス以外の情報は「邪魔」。みんなの前でキス、それが大事。
変態系は「えーっ!?」と驚くやつもいれば「ああ、とうとうやっちゃったか」と思うやつもいる「ああ、若いねぇ」と思う先輩もいれば「がーん」なんて片方に思いを寄せてた後輩もいる、とバリエーションを増やす。「キス」が大事なのではなく「キスが及ぼす更なるドキドキ」が大事なのだ。
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そこまで妄想してしまうから、絵じゃ足りなくて漫画にしてしまうわけで。
逆に、フェチ系の方々はよく漫画が描けるな、と思う。たかが○○が大好き、そんなのだけで漫画描いてたら、数作描いたら行き詰まりにならないか?と心配する。
妄想を最初にしておけば、サブルートもたくさん考えてあるし、一人一人にスポットを当てればそこからまた新たなストーリーがいくらでも作成できる。変態であれば漫画を描くのに困らない(絵を描くモチベーションとかそういうので困るかも知れないが)。
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先に書いたが、どちらが優れているというものでは無いんだろうな、と思う。
俺自身はフェチ系にはノれないし底が浅いと感じてしまう。
底が浅い、妄想が足りない作品が多く出回っている。この台詞を使いたいが為に作品全部を歪ませました、なんて公言して自慢する作家もいるぐらいだ。
まぁ、絵が良けりゃそれでいいからなぁ、漫画なんて。
http://anond.hatelabo.jp/20090630222746
まず、理系女と文系女に対立はあるか、という問題提起だが、そもそも理系女・文系女と二分しているところに問題点がある。
理系と文系で考え方の違いはあるが、ここで表出している問題は、理系脳・文系脳の違いによるものではない。
私の知り合いの女性には、弁護士や国家公務員I種を大学の頃から目指していたような文系女性が複数いる。
彼女達の意識の根底には、多かれ少なかれ、元増田のお姉さんと同じようなものはありそうだということが見て取れる。(それを声高に主張するか、内心にとどめておくかは別として)
要するに、これは理系女対文系女の問題ではなくて、「キャリア志向の女性」対「寿退職志望女性」の対立なのである。
となると、別段新しいことでもなくて、女性の社会進出が始まって以来のよくある問題のように思えてくる。
何故彼女達が寿退職女性を疎むかというと、これは大きく二つの視線がない交ぜになったものだろう。
一つは働く夫が専業主婦の妻に向ける、「お前は家にいればいいんだから楽でいいよなぁ」に近い羨望。ただし、だからといって、そう言う男性が専業主夫になってみたいかと問われたら、「とんでもない!」と答えるように、多くのキャリア志向女性たちだって多分専業主婦になりたいわけではない。
もう一つは、寿退職を志望する女性の存在により、同じ女性として評価が下がってしまう(実際、未だに働きたい女性にとって男女差別は厳然として存在している)ことに対することへの憤り。
もっとも、これについて論じた文章などは、探せば山のように出てくるに違いないから、ここでは深入りしないことにする。
とはいえ、元増田のお姉さんのような理系女性が、「文系女=非キャリア志向」とまなざしていることについては多少興味深い。
学歴の高い文系女性には、キャリア志向の女性が多くいることからも、この決め付けは不当なのだが、一般的に漫然と文系に進む女性はいても漫然と理系に進む女性は少ないことから、理系女性にとってはもしかしたら文系女性に対する優越感のようなものがあるのかもしれない。
しかし、『「将来の夢はお嫁さん」と言い放つ女性は文系である』という命題が仮にあるとしても、そこから『文系は「将来の夢はお嫁さん」と言い放つ』と考えてしまう、元増田のお姉さんの思考は、ちょっと論理的とはいいがたい。逆は真ではないからだ。
そのあたり、君は本当に理系女か、と少しだけ心配になった。
「すべての何々は何々である」という命題であれば反例が一つでも挙がれば反証になるが、
ここでは「何々は何々な統計的性質をもつ」という話なので、
むしろ詭弁ガイドラインという単語から脊髄反射的に信頼性を失うような人間の信頼性が低いのでどうでもいい。
そういう読者に向けては書いていないという事。
あなたは何をもって正しいとしているかのくだりは、命題・主張の正しさについて?それとも、論理の正しさについて?
命題・主張の正しさは問題としていなくて、論理の妥当性のみを問題にしているんだけども。
東大生の地頭が優れているのは、東大生の平均知能指数が120というデータがあるので、それだけで十分実証されている。
それに、ここでは正しい命題に対してもしそうで無かった場合について考察し相手に不安感を与えるという手法の例を挙げようとしている事は明白なので、
例としてあげられている命題が正しいかはどうでもいい。
こちらが何かこうだと主張したとき、「そうじゃなかったらどうしてくれるんです?」
「もし違ってたら大事ですよ。ちゃんと責任とれるんですか」的なことを言う人がいる。
どのような集団でもそのような輩は存在する可能性があるが、知能が低い集団ほど多く存在し、
そのような間違った論理がまかりとおってしまうことがある。
これは典型的な詭弁であり、かの有名な詭弁ガイドラインにも含まれている。
この詭弁のずるい所は、さまざまな可能性を考えることは知的な態度であるというコンセンサスや
存在するのかもあやふやな極端な可能性であってもそれを考察させることで信憑性が増幅するという人間心理
を巧みに利用して、いかに馬鹿げた自説であっても真実味を持たせることができる
という所にある。
例えば、「東大生はお勉強が出来るだけでなく地頭も優れている」という事は、さまざまな根拠から自明のことであるが、
これに対して
「東大生にも馬鹿はいるし、一概に言えないはずだ。例えばお前が社長だとして、
過去の業務成績から東大卒より高卒のほうがよく出来ると分かったらどうするんだ?
それでも東大卒のほうを優遇するのか?どう考えても高卒のほうを優遇するだろ?」
のようなことを言った馬鹿がいた。
まず他の条件が揃っていないから、東大卒と高卒を安易に比べて判断するのは間違っているのだが、
そんなことは馬鹿な連中は分からないから、上のような馬鹿の意見に「そうだそうだ」と賛成する人が多数現れる始末。
とりわけ、可能性の話で自説を補強する方法は、自由度が高いだけに、注意する必要がある。
というのも、どう見ても自分の言い分のほうが正しくて、議論に勝てそうだなと思っていても、
この種の詭弁を使われて周りの人たちを味方につけられてしまう危険性がつきまとうからだ。
実際にネット上の議論を見ていてもそういった詭弁が得意な自称「議論に強い」人がいる。
彼らは、議論に強いのではなくて、自説の主観的なもっともらしさを操作するのが得意であるに過ぎない。
上の東大卒と高卒の例のように、あるのかも定かでないような可能性の話を出して、
「馬鹿なこと言ってんじゃないよ」と言えば、相手はつい圧倒されてしまいがちだが、何も論理的には言い負かしてはいない。
可能性の話というのは、論理学的に言えば、真偽の定かではない命題に対して、もしそれを真と仮定したならばこうなるという話であって、
仮定の真偽がハッキリしない以上、自説の根拠とは出来ないはずの話である。
しかし、つい仮定の話だということを忘れてしまって、さも真実の話であるかのように錯覚してしまうのが人間である。
これは、他人を言い負かす時に用いられるだけでなく、自分の中で感情的に思考している時にもよく起きることである。
感情的な気分の時は、論理の前提を忘れてしまい、「もしかしてアイツ馬鹿にしてるんじゃないか?許せん!」と勝手に激怒したり、
「もしかしたらあの人は私のことが嫌いなんだろうか?そういえば、この前もあんな態度とられた。どうしよう嫌われてる」
これと同じで、他者を詭弁で騙す人は、意図的にしろそうでないにしろ、個人の感情をうまく引き出すことで、
真偽値を主観的に逆転させたり、論理的飛躍を起こさせたりしている。
よくある一つのパターンとして、恐怖や不安を煽って、存在しないはずのことをさも存在するかのように言って購買欲を引き出す商法がある。
そもそも「何々は存在しない」や「全ての何々は何々である」という命題の真偽値を主観的に逆転させるのは結構簡単なことで、
一部の例や一部のパターンだけを取り出してこんな規則がありますよと言ったり、虚偽の体験談を作り出すことで信憑性を持たせたりすれば
馬鹿な人は簡単に信じ込んでしまうのだが、そこに恐怖や不安といった要素を絡めれば、なおのこと簡単に人は騙されてしまう。
可能性の話で自説を補強する時も、恐怖や不安を利用することが多く、「もしこうだったらどうするんですか?」という言い方をすることで相手を脅迫し、
相手や周囲の第三者に「もしこうだったらどうしよう」と不安に思わせて自分のペースに巻き込もうとする。
そうして、人々の中で持たれていた信念や知識の真偽値を逆転させ、さらに恐怖や不安を煽ることで各人のなかで論理的飛躍を起こさせる
というメカニズムなのである。
このようにメカニズムを理解すれば、この種の詭弁に翻弄されることは無くなるのだが、きちんとメカニズムを理解できない馬鹿は
いつまでたってもこうした詭弁に振り回された人生を歩むことになる。
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ブクマから。
このエントリー自体が「可能性の話での議論」である可能性がある。
うまい。実は、この種の詭弁は詭弁であるかどうかの境界が曖昧なところが厄介。
「そうじゃなかったらどうしてくれるんです?」って言われたら「もちろん責任取りますよ」って返してる。
責任とれば主張が間違っても良いという場合にはそれで問題ないかもしれないけど、学問的に誠実な態度とは言えない。
やはり相手の学説・主張は間違っているということをはっきり言えないと困る。
特に、相手が無意識にメッセージを刷り込んできた場合に、それに抵抗する間もなくメッセージを受け入れざるを得なくなるのは困るから、
きちんとメカニズムを理解したほうがいいという話なんだけどな。
観念的で感情的な反論ばかり。私は少なくとも100人以上の東大生の地頭に触れる機会があった。
地頭の良い人であれば、会話のテンポ、記憶力、論理の緻密さ、感性などから地頭があるレベル以上であるか見分けがつくものだ。
もちろん不得意なスキルはあって当然なのでこの中の一つが欠けていたからといって地頭が悪いとするのは早計。
ともかく、地頭の良い人にとってみれば、自分以下のレベルの人間の地頭については判断できるので、
東大生だから地頭が良いなんてことはないと言っている人間は、想像で物を言っているか、その人が会ったことのある全ての東大生の地頭よりその人の地頭は悪いか、
そのどちらかであろう。
そんなこと言ったら、地頭の悪い人に東大生の地頭の良さを納得させられないので、やむを得ず知能テストの結果を見れば自明ということに触れはしたが、
べつにそんな測定をせずとも、しばらく会話してれば分かるはずだよ。
あと、学歴至上主義は通用しないという反論は、地頭という意味を理解していないらしい。
いろいろとおかしな反論が多いが、東大生より高卒のほうが地頭が優れていると判断するに足るデータは今のところ見たことがないので、
あるものなら出してほしい。
http://anond.hatelabo.jp/20090602062719
何で「ビジネスでの成功を目指す」ことと「恋愛やセックスに積極的、特に女を征服しようとすること」が
マッチョないし男らしさという言葉でひとくくりにされるのかな。
前者を満たしていないが後者は満たしている事例(非モテDQNや処女厨など、いわば肉食弱者)はよく聞くが
何が書いてあるのか、読み取りきれなかったのだけれど。
「後者」=「恋愛やセックスに積極的、特に女を征服しようとすること」
つまり、「前者」と「後者」は連動していないという事例ということでいいかな?
それでも、あえて「マッチョ」ないし「男らしさ」として、ひとつのモノとして括られるのは、「後者」の積極性は「恋愛やセックス」に対しての積極性ではなく「女を征服しようとすること」に対する積極性のことだから。
これの証明したらいいじゃん。
うん。そこまでの証明は追った。この時点で既にむずむずするが誤りは発見できなかった。で,更にxにπを代入すると気持ち悪さがロケットで突き抜ける。
これの意味がわからないので解説してほしい。
われわれ(と複数人称を使うことを許して欲しい)が数学に初めて触れるとき,そこに示されている記号は現実と対応するものとして把握されるでしょう。2はりんご2個,和算は合計,負数は借金の額などなど。だんだん抽象度が高まっていっても,現実世界とどこかで対応していることを期待してしまう。虚数のように一見ありえないような概念であっても,それが例えば電磁気学で使用されているさまを見ると安心する。数学は現実世界をモデル化したものであり,数学で真と証明されたことは現実においても真となる。そういう素朴な期待がある。
でも現代的な解釈はそうじゃないらしい。正当と仮定された公準から,正当と仮定された推論規則にのっとった操作を有限回数くりかえすことで,任意の命題の真理値を導出するゲーム。別にこの公準が現実世界と対応している必要はないし,推論規則も常識と一致する必要はない。もちろんゲームとしての出来の良し悪しはある。ある命題について真と偽の両方を導出できてしまうことを許すような公準・推論規則は矛盾をはらむ「悪いゲーム」だし,多くの命題について真とも偽とも導出できないようなゲームはつまらない。われわれのもつ数学もこうしたゲームのひとつで,わりと現実に似せて公準と推論規則を定めてはあるが,常に現実と対応することを保証するものではない。ゲームの品質についても実は無保証で,矛盾があるかもしれないし証明不可能な命題をもっているかもしれない(とゲーデルが言ってる)。
私に与えられた公準と推論規則からオイラーの公式が真と証明できた。よろしい。でもその公式が現実世界の何ごとかを示しているものと信じて対応づけを探すことには根拠がない。どうの剣とかわの盾を使ってスライムベスを倒せたというのと同じ。ただ上に述べたように私は素朴な信仰を捨てきれないので,対応づけを求めてむずむず感がとまらないのであるなあと。理系マジヤバイ。
一応最初に釘をさしておくけど、言葉は万能じゃないからね?
言葉で全てを表現できるわけじゃない。いや、つきつめれば「青色」「赤色」という事場でさえ、色を表現しきれないんだよ、全然。じゃあ、表現しきれないから「青色」「赤色」という事場はいらない?
いえいえ、いらなくはありません。表現しきれなくとも、相手に伝えるヒントになるから、有益なのです。
つまり、相手に物事を伝えるヒントとどうにしかして伝える・・・それが言葉なわけですね。行って見れば、そういったヒントをお互いに出し合い、理解しあうことが表現であり、そういったヒントによって理解できるという信頼から言葉はなりたっているわけです。
ここまで言葉そのものの説明、いいかな。
そんでさらにいいたい事は、つぎのステップにありまして、その「甘いまずさ」と「甘いうまさ」は、どこがどううまく感じて、まずく感じるのか、オノマトペでもいいから表現する方法はあるんだよ。輪郭をね。
伝わりきらなくても、ヒントとして「この甘さはまったりとしてて甘さが広がるからうまい」のか「この甘さは、少し苦味があって口の中がイガイガするからまずい」のか、ね?表現できるでしょう?
この表現で「伝えきることができるかどうか」という事は問題じゃない。なぜなら、それは上記したように言葉全てに通じる命題であり、言葉というのはヒントの連続でしかないから。
だから、何を語るにしてもヒントでしかない、そのヒントを表現しようとしたり理解しようともせsず、会話を一方的に閉じようとすることが思考停止でしかないんだよ。
んー。俺は論理については超素人なのであまりたいそうなことを言いたくないが。
これが論理だと思うのね。命題間の必然的関係を探る。野矢茂樹の教科書には「推論の強制力」って書いてあったな。でも法学で問題になるなんちゃって論理はそんなものじゃないでしょ。むしろ「増田は殺人者と言えるか?」っていう事実認定の部分から入ってくる。で,構成要件該当性を云々して「人とは何か」「殺すとは何か」っていう定義論争につなげていく。命題そのものの成立真偽を争う。これって論理学じゃないよね。
でさ。「人とは何か」っていう定義論争にしても,実は「守られるべき人間の範囲はどこまでか」っていう論者の価値観念を濃厚に反映していて,とうてい客観的に言えるものじゃない。受精卵はどうか胎児はどうか脳死者はどうかって宗教や道徳規範が密接に絡んでくる。科学でも観察の理論負荷性なんてことが話題になることがあるけど,法学のそれは比じゃない。事実認定そのものに,誰が処罰されるべきなのかって結論があらかじめ混入されてしまっている。
そういう主観性を踏まえた上で商売するならいいのよ。でもそれ無視して自分が価値盲目的(って今の法学生も習うのかな)に振舞えてると信じるなら超ヤバくね? ヴェーバーさんマジ泣くんじゃね?
って話。
上記命題において、
「ドラえもん!ドラえもんはグーしか出せないし、バルタン星人はチョキしか出せないから」
と答えてしまうのは早計という物であろう。
まず、バルタン星人について言及すると、彼ないし彼女の指=ハサミは、閉じたり開いたり出来るのである。
つまり、単純に考えると、彼ないし彼女は、チョキとグーが出せる。
さらにややこしいのは、チョキの扱いである。
この問題は、パーの定義と直結する。
果たして、パーとは何か(初対面の人間にこんなことを言ったら、正気を疑われそうだが)。
(1)手を開いた状態、と答える人もいれば、(2)指を5本とも伸ばした状態、あるいは、(3)掌を見せること
など、議論が分かれそうだ。
(1)の場合、バルタン星人における、パーはチョキと同義ということになる。
(2)の場合、では、例えば、ピッコロ大魔王はパーが出せないのか?という問題に直結する
(彼ないし彼女の指は4本しかない)。ちなみに、全ての指を伸ばした状態、と定義すると、(1)と同様、
バルタン星人においては、パーはチョキと同義ということになる(さらにたちの悪いことにグーとも同義になる)。
(3)の定義にすると、問題が余計ややこしくなる。果たしてドラえもんの手は、グーなのか、パーなのかという問題に
直結するからだ。もちろん、ドラえもんには掌がない、という主張もあるだろうが、ドラえもん本人はその主張を
飲まないかも知れない。本人の主張が大事だ、という人もいるかも知れないが、そうすると、ドラえもんは
ジャンケンでは無敵になる可能性もある。その時々によって主張を変えるかも知れないからだ。
つまり、手を出し合った後で、
「君はこの哀れな丸い手をパーだと思うのかね?僕の心情を理解したまえ!」
と、涙ながらに主張されて、それを飲めないと、悪役になってしまうのだ。全く恐ろしい話である。
仕方が無いので、最初に出す手を紙に書いてはどうか?という提案もあるだろう。
そうすると、事実上、彼らはハンデがないことになる。
したがって、なかなか物事は単純に割り切れない物なのだ。