はてなキーワード: マトリョーシカとは
小さいころちゃちな付録でも嬉々として喜んだあのころに、成人した後、まためぐり合う。
ふろかーを知ったのは今年、某漫画の出版社乗っ取り企画にむざむざとはめられw買った時。
どんな付録かを探していたら、雑誌付録をレビューし続けるブログやスレッドを発見した。
そして知った事、それは付録付き雑誌は毎月20誌ほどにものぼる事、
付録とはいえ出来がいいものに関しては雑誌の値段以上の値が付く事(通常雑誌一冊が700円として付録は100円程度/ヤフオク相場)
ブランドコラボで上はコーチやフェンディ等のレベルまで出ている事・・・
毎月の付録雑誌を全て買う人は例外としても毎月二冊程度ならばそんな出費ではないが、毎月やっていれば一年で立派な付録マトリョーシカが完成する。
ふろかーは、気軽にブランドを買えるという点だけでなく、「付録相応」以上の付録を見つける楽しさが所謂「ヲタクの喜び」に該当すると見ている。
また、レビューしていち早く人身御供になる事もプチ英雄視される嬉しさなのかもしれない。
そう考えると金も掛からず楽しめ、使えば生活の役にも立つ、情報先取りでプチファッションリーダー、
「ヲタク」カテゴライズもされない綺麗なオタク=ふろかーという趣味ある種最強な気がしてしまう。
(とは言っても層は主婦層が多い気もする)
何だかわからないけどマトリョーシカ の私的まとめ
入れ子は見た通りeditで
をたくさん打った。50組ぐらい。
しかし、「!」や「?」のような記号類のところで勝手に折り返される。
たとえば、「Hello,world!Hell!o,wor?ld」だと、
Hell!
o,wor?
と反映される。
コー
ヒー
に
ク
リー
プ
を
入
れ
る
奴
は
邪
道
長音と小文字は同じ行に反映される。
「コンニチハアケマシテオメデトウゴザイマス」は、
コンニチハアケマシテオメデ
トウゴ
ザ
イマス
になる。
何でかは知らない。
たぶん記号類のところで何かしら仕様乙、なことが起こっているかと。
あと、http://anond.hatelabo.jp/20100430151007の指摘通り、ウィンドウ幅を変えるとぬるぬる動く。
でも文字の反映は変わらない。宇宙ヤバイ。
今日が暇だったから、前々から興味があったはてな匿名ダイアリーに日記を書くことにしてみた。色々調べていると、初心者のための増田講座みたいのもあって世の中は平和だなと思った。せっかく書くのだから、たくさんの人に読んでもらえると嬉しいなと思った。だから、いかにもなタイトルを付けてみたが特に内容はない。それでもいいんだよね?
でもせっかくだから、タイトル通りの内容を書いてみることにした。意見とかもらえたら嬉しいのだけど。まぁなくてもいいや。書きます。「人に説明をする時に気をつけているたった一つのこと」。
とかさ、何一つ間違ったことは伝えてないんだろうけど、分かった気がしないよね。これ、多分説明してるんじゃなくて、定義をしてるだけだからなんだと思う。数学の教科書も似たような構造をしていて、最初に公式の定義があって、その後に延々と証明があって、最後には定義通りの式が導出できてて、「ほら簡単でしょ?」、じゃあ次。ってな風に説明されているよね。これで分かる人もいるのだろうけど、苦手な人、多分多いです。数学嫌いな人は特に苦手なんじゃないかな。これは、「○○ってなに」とか「○○ってなんだろう」みたくチャレンジ一年生的やさしげな言葉に置き換えたところで、その分かりづらさは何一つ変わることはない。
だからこそ、人に何かを説明する時「とは」に頼りすぎないように気をつける。じゃあどうするのかというと、よく練り上げた比喩で説明をはじめる。いいお手本として参考にしているのが、「郵便と糸電話でわかるインターネットのしくみ」という本。内容は別にどうでもいいから、目次だけは見てみてほしいです。「通信の基本はのろしと糸電話」といったように、ほとんどの人が実体験として持っている、もしくはかなりの人が常識的に知っていることばによって説明をはじめる。そのことばを軸にしつつも、比喩の部分をだんだんと削ぎ落としていき、説明すべき事項に慎重に近づいていく。そのように説明が展開されるように気をつけています。説明の最終段階として、ことばを持ち運びしやすいように定義づけるのは別にいいことだとは思います。説明の流れのイメージとしては、マトリョーシカ人形などどうでしょう?一番外側はよく知っている顔なのだけど、一個ずつめくっていくうちにいつの間にか違う顔のマトリョーシカになっているという感じ(この比喩がわかりにくいよ!)
もちろん定義という手段が必要になる場面はいくらでもあります。そして「とは」を使った表現が有効な場合だっていくらでもあります。ただ、無自覚・無意識に「とは」を使って説明した気になっているようなやつには、十分反省してほしいです。以上。
心にマトリョーシカのように何層にも重なった箱を用意する。それをひとつひとつあけていって,ひたすらあけていって,そうして何時間かたったころに,最後のひとつにたどりつく。
そうしたら,最後の箱には恨みを入れる。
体の痛みとか憎しみとか,そういうのはだんだん軽くなっていくし,そのことばかり考えて毎日生きていくのは疲れちゃう。毎日自分のやるべきこともきちんとしないといけないから,そればかり考えてもいられない。できるだけできるだけ考えないように,そういうことをするんだけど,たまに彼女からされたことや言われたことばをひとつひとつ思い出して,遠く離れたところに住んでいても,体にまだ残っている跡をなぞると,恐怖で叫び出さずにはいられなくなったりする。ものごころついた頃から憎んで,憎んで,ひたすらに憎んで,たまにこっそり死のうとして,憎み疲れて,でもどうでもいいと思えなくて,忘れようと努力して,忘れるものかと思ってみたりして,でも疲れて,そうして煮込んで濃縮して,最後に残るのが恨みであると実感したりする。心のなかにしめる割合みたいなのはすごく少なくなるんだけど,その残った恨みにひとたび水を入れたらまた心が憎しみでいっぱいになる。
マトリョーシカの核に恨みを入れるより,恨みなんて捨てちゃえばいいじゃない。って思うんだろうな。
どうすれば最後の箱を捨てられるかなんてだれも知らないけどその方法をどうしても見つけ出したいとも思ったりする。その方法を知らなかったら,私はいつかあの人を殺すと思う。殺してしまうと思う。殺してやりたいと思っている。殺してしまうための知識はすでに得ているし,力も得てしまっている。私が手をかけるまえに,はやくいなくなってほしいと思っている。
私は小さい頃から,対象に対して静かに憎しみを持つことで自我を保ってきた。保とうとしてきた。保てなくなって,狂ってしまうのだけはさけたかった。傷つけられているときに私を代行してくれるもう一人の人を作ることも考えたけど,そうするよりも憎む方が自分の力になった。どうしても離れたいと勉強することだってできたのだから。
友達ふたりの結婚式に行ってきた。すごく感動した。結婚式に夢やあこがれを抱いたのは本当に初めてのことだった。自分が結婚するとしても,今回の新婦みたいに泣きながら親に手紙など読めない。あの人の喜ぶ顔をみようものならその場で今までされたことを仕返してしまうのではないかとさえ感じた。きれいな涙をながしながら手紙を読む友達を,同様に目を潤ませながらそれをきく母親を。お色直しに立つ友達が手伝いに母親を指名するのを,心底うらやましいと思った。私が今回結婚したふたりを羨み,私にはあんな風にいい式ができないと妬んでいることに気づいてしまい,どうにも情けなくなって消えてしまいたくなった。同時に,その日流した涙が恨みの固まりを溶かして,また心の中が憎しみに占められてきているのをありありと感じた。
お願いです。私を犯罪者予備軍として捕まえてください。あの人に,近づけないようにしてください。私は人を殺したくないのです。