はてなキーワード: たぬきとは
ネタばれありますよーご注意ください!
じゃ、順番にいくよー
当り前だけどさ、人にものを借りたら、どんな形でもいいから返そうよ。違うのかな。
返さないんだったらさ、人間あっての生活なんだしさ、当然さ、質素に生きろよ。
じゃなきゃ、スピラー的な狩り暮らししようぜ。
スピラーが折角くれようとした、カエルの足見て、気色悪くなってるようなさ、動物としての本来の生き方放棄した、仮ぐらしなんて止めよう!
今回はさ、、宮崎アニメと違って魔法とかなくて人間離れしすぎないお話だよね。
だれかが言ってたけど、アニメって2通りあって、
屋根から落ちたら死ぬタイプのアニメと、死なないタイプのアニメがあるじゃん。前者はサザエさんで、後者は攻殻機動隊とかさ。
この物語は前者だよね。
だから、リアル世界での位置づけって言うか、食物連鎖ピラミッドのどこにアリエッティたちが位置づけされるか、気になっちゃったよ。
人間>たぬき、ねこ>からす>ねずみ、カエル、ごきぶり>アリエッティ>こおろぎ、だんごむし、あり
こんな感じ?
こおろぎとか、だんごむし、群れたアリって結構、貪欲で凶暴だから気を付けた方がいいよ。
ちょっと、俺の話で申し訳ないけどさ、
ちいさいころ、「だれも知らない小さな国」っていうコロボックル(小人)が出てくる本が好きだったの。
人間との共存の難しさとか自然の怖さが描かれててさ、今回も勝手にそんな感じだと思ってたから、
やっぱり捕食関係がぜんぜん描かれていないことに気になったよ。
「君たちは滅びゆく種族なんだよ。君はこの世界にどのくらいの人間がいるか知ってる?67億人だよ」
これはさ、生物多様性の話じゃないよ。
ま、ヤンデレな翔くんだから、ついつい自分より弱い存在に対して、ひどいこと言ってしまったのはわかる。
でもさ、そこで突然「オレ、心臓悪いんだ」っていうオレかわいそうな奴発言は、浅ましくない?
「君はぼくの心臓の一部だ」
あのさ、アリエッティの逞しさ、ほんとに伝わったてたのかな。突然出てきた、その言葉だけじゃわからないんだ。
翔くんの大きな手で、いきなりアリエッティ家のリフォーム始めたよね。
やっぱり、リフォームは、キッチンからなんだ!
あの欲深いというか、あざといママエッティに、「ここが地獄かあああ」って形相にさせるとはね。
親切心が裏目に出ちゃっただけなんだよね、ドールハウス、美しいから。
小人さんにとっては、テラフォームくらいの勢いの、恐怖を与える想像力はあったと思うんだ。
それに、翔くんは知らないかもしれないけど、もともとのキッチン、なかなか使い勝手も良く綺麗で良かったんだ。
リフォームの必要性なかったよね。
とりあえず、脱出はしたし、新しい世界がはじまるんだよね。
でもさ、また、この家であったことと同じこと繰り返すよ。
だって、ただ逃げただけでしょ?
ぜんぜん成長してないじゃん。ママエッティも、パパエッティも。
アリエッティなんかはさ、かなり前向きな女の子だから成長要素なかったじゃん。
アリエッティの軽やかに飛び回る姿、ホッチキスの針の階段、水滴の質感、小人さんの生活を楽しんでみて!という描写がアニメならではで、素晴らしかったよ
ここまで読んでくれてありがとう、まあさ、キャラを掘り下げられなかっただけなんだろうなってのが感想。
鈴木敏夫が言ってた3つのキーワード「静かで、ひっそり、そして質素に」の正反対だった。
あざとく、あさましく、そして浅い
わたしの場合それはおそらく「うー」または「うーたん」からはじまる。
本名を「ゆう」と読むから、うーたん。青い色とたぬきのぬいぐるみが大好きな幼いこどもだった。
そういえばすべりだいに出来たクモの巣をこわがるともだちのために、手でとってあげたことがあった。
でもたぶん、わたしがあの子たちの中で一番クモがきらいだったし、びびっていた。
遊園地で観覧車とメリーゴーランドにこわくて乗れなかった小学校中学年のころ、
母親と見に行ったドラえもんの映画、始まる前に、映画館のくらさで泣き出した
わたしは自分のことをたしか「ゆう」と読んでいる。
友だちの家の門の近く、足のながいクモがわたしの服に張り付いて絶叫し
トイレの電灯のあたりに小さな子グモがうじゃうじゃいて気絶した。
中学高校に場所が移ると、自分のことを名前で呼ぶのが恥ずかしくなってくる。
それに好きな子ができたので、恥ずかしさはさらにつのり、自分のことを名前で呼ばないようわたしは懸命に努力した。
南ちゃんは、いくつまで自分のことを「南」と呼び続けたんだろうなあとかそのころから考え出した。
さて、わたしは初めの間は一般的な「わたし」を使うよう試みたが、違和感が強くうまく定着しなかったので
「わたし」「あたし」「わたくし」「あたくし」「せっしゃ」「うち」「われ」「わし」「ぼく」「おれ」「おいら」
色んなふうに、自分のことを呼んでみた。どれもピンとはこなかったが「ゆう」は次第に使わなくなっていった。
クモは相変わらず苦手だった。クモが部屋にいるのを見つけるとその部屋には数日入れなかった。
大学に入って、大学をやめて、違う大学に入って、働いて、一人称はまだ定まらない。
今のわたしは使いたいときに、その場にあうような一人称を探して使っている。
まあ、そういうのもいいかな。と思っていて、これからもそうして過ごすんだろう。
母と姉は「ゆう」がなつかしい、だからもどせ、とわたしに時々言ってくる。
でも、今の私は、暗いところが平気で、幽霊も信じていなくて、
遊園地のありとあらゆる乗り物に乗れる。そして、クモが怖くない。
「ええ、この前クモを見つけて、ゆうが怖がるだろうとおもったのになあ」
この前姉に言われて、気がついた。もう、わたしに、「ゆう」は二度とつかえない。
404 Blog Not Found:言葉は何を乗せているのか
よいエントリだ。このブログの書き手の言葉に対する無関心、あるいは悲しむべき無神経さを端的に明かしている。
小飼は文章とその書き手の関係について無知だ。あるいは少なくとも、あまりに配慮が足りない。
突拍子もないことかと思われるかもしれぬが、感じたことを感じたままに書いておく。
誰でも、小学生くらいのときに「私は言葉を〈使っている〉のか? あるいは言葉に〈使われているのか〉?」というどうしようもない疑問を抱いたことがあるはずだ。私は言葉で考えたことを言葉で書いている。はたしてこれは私が本当に考えていることなのか、そうでないとすれば一体なんなのか。私の考えというものはどこから来たのか、と。
書き言葉を覚える頃に感じるこの漠然とした感触は、認識と言語のどちらが先か、という設問にまで整理された問題ではない。これは単に、人間の内面(そんなものがあるとして)が言語と絡みあいつつ出来上がってゆくものだという単純な事実を、幼い肉体が感得しているということに過ぎない。
具体的な経験は無数の形をとるだろう。誰もが人生のある時点で言葉の不思議さに触れる。ここで書きたいのはそれだけのことだ。
だがこの経験は決定的なものだ。彼はその感触を通じてまず〈言語で〉語ることの困難を知り、自らの洞察が由来する暗部に触れ、〈言語を〉語る不可能を悟る。そしてそれを道具として語ること、それ〈について〉語ることに正面から向き合ってつまづいた人間が、なお人間として生きるための方途はその厄介な存在と必死に〈戯れる〉ことしか残っていない。これは彼自身が自覚的に行う選択ではもはやない。
こうして幼い者たちはいつの時代であっても常に大人を驚かせる詩人となる。また、彼らは毎日のように聞き手の深奥を揺さぶる語り部となる。なぜ我々は子供達の言葉に涙するのか。そしてなぜ彼らのように〈無邪気に〉言語と戯れることを羨望するのか。それは彼らの必死の戯れが放つ生の輝きが、我々のどこかに眠っている言語と自我への畏れに共鳴しているからにほかならない。我々は彼らを通じて、はじめて言語の不思議に触れ、途方に暮れた日のことを思い出しているのだ。
子供は主題ではない。
ここに書いておきたいのは、言葉に少しでも配慮しようとする者はその感触を忘れてはならないということだ。なぜならそれを感じ続けるということは、人間と言葉の骨絡みの関係を最もシンプルに引き受けることであるからだ。
人間と言葉の骨絡みとは、言葉は我々とともに今この瞬間も変化しているという、これまた単純なことだ。これはいわゆる言語の乱れとかそういう話ではない。たとえば、今だれかが〈たぬき〉と発言し、あるいは書いた瞬間、日本語の〈たぬき〉はそれまでの〈たぬき〉ではもはやない。それは彼が発したという歴史を背負う。そしてこの微細な変化は〈きつね〉や〈どうぶつ〉や〈やま〉や〈にほんご〉といった周囲に広がる言語の網の目に静かに拡がってゆく。そしてこの小さな波紋に触れない領域は存在しない。我々は今まさに言語の中で、言語とともに生きているのだ。
だからこそ、自覚的に何かを語ろうとする人間は、配慮せねばならない。当たり前のことだ。この配慮とは言語を配慮することであり、言語の網の中で生きる他者を配慮することだ。このことを自覚さえせずに何かについて、とりわけ言語への配慮について語ることができるとは思えない。
これを思うとき、小飼が何を思って「『文学者』」が言語の利用者であると述べているのか、私には見当がつかない。
言葉を生業にするとは、自らの言葉に自らの生のすべてを託すことだ。とりわけ文学とよばれる言語を媒介にした人生には、文字通りの夥しい生命が費やされてきた。小飼は彼らが言葉をネジか何かのように「利用」して生きたと言いたいのだろうか。言葉について書こうとする小飼に私が感じる違和感はとりあえずこれにつきる。
果たして「鴎外」は「いい文章を書いた」のだろうか。
「『文学者』」とは「『言語利用者』」だろうか。一体だれが言語を「利用」し、「虐げる」ことができるというのか。
こう問うてもいい。一体だれが、自らの生を賭さずして真に言語を「傷つける」ことができるというのか。
そして一体だれに言語を「護る」ことができるというのか。
我々にできることは、言語とともに生き、言語と死ぬ気で戯れることだけだ。つまり、配慮することだ。
小飼は自分でもわかっているように、一生エンジニアとして生きるべきだ。小飼が言語と戯れる道はそこにあり、そこにしかない。
文学を語る資格がないと言っているのではない。上に書いたように言語を語り、文学に遊ぶ資格は人間すべてにあるはずだ。
私は単に、みずからが言説に生きる身でありながら、言語に対してあまりに冷淡で不誠実な小飼の態度が気に入らないのかもしれない。
だが小飼が「日本語」と書くその日本語に我々は生き、そしてその日本語を我々は死んでゆくのだ。
今回のエントリはその後半だけについて、門外漢にもよく分かるように詳しく、言葉に配慮して語るべきだった。
それが人並みに日本語を使えるエンジニアとしての、日本語に対する、そして自らに対する誠実さではなかったのか。
鴎外に至っては、いくらいい文章を書いたところでその罪の大きさを拭えるものではないとすら感じている
重要なのは、たとえ「ナショナリズムと悲観と無知と傲慢さ」の果てであっても、やっと、そうやっと「文学者」という「言語利用者」の頂点にいる者が、言語利用者の底辺にいるものたちが面してきた問題と危機感を得たということそのものにある
私が今使っている日本語も、「傷ついた日本語」である。なぜなら私は「傷つく前」の日本語を何とか読めても、書くほどの教養がないからだ。私の名前が「彈」ではなく「弾」なのも、実はその余波である
喩えりゃいいじゃない。
民族の問題を家族に喩えるとか、意地悪たぬきとうさぎに喩えるとか。
ダルフールの問題のほうがはるかに深刻なのに俄かに日本人が騒ぎ出しているのは同じアジアでの出来事だからだろうか?
ミャンマー暴動で日本人ジャーナリストが殺害されたのはなんかもう忘却の彼方だよね……。
結局どこの国も困窮した状態から抜け出したいがために多くの人が苦しんでいるわけだが、その何倍も豊かな生活をしているはずの日本人はいったい誰のためを思っていったい誰を非難しているのだろうか?
チベットの人?
暴動に参加して鎮圧された人?
チベットの中に住んでいて暴徒により襲われ家やお店を壊された人?
それとも暴動がおきたために平穏な日常をこわされた人?
それとも独立国家になれていない”チベット”という記号的象徴を哀れんでいるの?
主導者ダライラマを哀れんでいるの?
暴徒鎮圧命令を下されて凶刃を振った末端兵隊の罪を哀れんでいるの?
鎮圧の命の決断をした指導部の判断を責めているの?
問題の根幹は貧困に根ざした民族問題だ。
国内の苛め問題も解決できないように、この問題の根本的な解決は無理だ。
理想的な解決に向けたシナリオはある。
弱いほうをかばいだてしパワーバランスを整えることだ。
根本的な問題があれば諌めればいい。
まずは喧嘩をやめさせる。非難や肩入れはそのあとだ。
同じ地球に住む人間として諍いごとは円満にすませてもらいたい。
だが、本当の願いはどこの国でも暴動がおきないぐらいお腹いっぱいにうまいもの食えて、
不安も不満も抱えずにのほほんとみんなが生活できることを望む。
だが我々の豊かな生活はどこかの途上国で年端もいかない子供が水汲みのような労働しているのを集めた結果だ。
石は高く積めば崩れる。
だが積まずにはいられないのが人間の業。
ひとつつんでは・・・
http://d.hatena.ne.jp/dangerous1192/20071210/p1
酔拳の王 だんげの方さんで、
選んだ人は、「男」です。
集計用リストは下のほうへ。
・月野定規,♭38℃ Loveberry Twins,普通にエロス,コアマガジン
挙げてる人が既に多そうだけど、鉄板だからなー。
この人の作品はアンソロで見ることが多くて、割とそれらは好きなんだけど、
なかなか単行本になってないんだよなー。唯一の単行本てことで選んでみた。
・ものぐさうるふ,月虹 Forbidden Lovers,兄妹相姦,フランス書院
2002年発行と少し古い作品。
顔と同じくらいのデカさの巨乳は苦手ってのなら、パスしとけw。
表紙買いして良かった作品。
タイトルは、姉と妹とあるが、友達の母まであり、
守備範囲が広めになっている。
2003年発行とやや少し古い作品。
女性作家らしい少女漫画っぽい作品がオムニバスに集められてる。
タイトルのとおり、妹あり、姉ありといった近親多目。
1998年発行と、選んだ10作品の中で一番古いもの。
が、今見てもひどく古い感じはしないと思った。
学園モノの基本としてか、後輩・先輩・同級生のお嬢様・先生・幼馴染と
カバーしている範囲は広い。
以下、余談。
他にも、赤銅茉莉の「Melty Pink」とか、
なんかも候補に挙がったんだけどさ、
泣く泣く10個に絞ったんだ。
つっこまれる前に開き直っておくぜ。どうせ俺は、ロリで妹好きさっ!
集計用一覧
月野定規,♭38℃ Loveberry Twins,普通にエロス,コアマガジン
車で帰宅途中、家の傍で犬をみかけた。
関東は今日は台風で大荒れで、今はやんだけどそのときはまだ雨が降ってた。
犬は道の脇に立ちすくんでて、車が近づいても動こうとしない。
車を家に置いた後、心配になって戻ってみると、やっぱり犬はたったまま。触っても反応しない。ちょっと肥満気味のパピヨンだ。
このままにしておいたら凍えて死んでしまいそうなので、家に連れて帰った。
ひとまずお風呂に入れる。とりあえずの囲いを作って、衣装ケースにタオルをひいてベットをしつらえる。
照明の下でよく見ると、純血パピヨンではないようだ。なかなか不細工な顔をしていて、例えるならたぬき。
たぬきとパピヨンの混血かな??なんて言って「たぬ」ってあだ名をつけた。
我が家にはもうぼけ老犬となったパピヨンがいるが、たぬもなかなか老犬のようだ。お互い少し臭いをかいだだけであまり興味をもたなかった。
首輪はなし。人の動きを目で追うが、声には全然反応しない。怖がる様子はまったくない。触っても怒らない。
死んでしまったら大変!ってことで連れ帰ったけど、飼い主が現れなかったらどうしようか。
保健所にひきとってもらっても、イコール処分になるのはあきらかで。
飼い犬以上に年はとってそうだから、最後まで面倒をみる事になるだろうか。
たぬはいま、いびきをかいて眠っている。
はてな好きの論調って、みんなこうなの? 具体的にどんなものかというと……。
・「〇〇をはてなで最初にやったのはotsuneだ」「後に〇〇などが影響されてはてなちゃんをつくった」などのルーツ話が好き。
・すぐ衆愚化を記事中に用いる。
・「○○がブクマしたときのめがっさにょろにょろってタグがいいよね」「それに、〇〇のぽんぽこたぬきさんってタグとかね」と、意味のわからないタグについて語り合う。
・「最初は〇〇が好きだったけど、やっぱり……」と、自分の中の思い入れの変遷を語る(最初はkanoseだったけど、やっぱりzoniaだね、みたいなやつ)。
・はてなにおける「プロレス」というもののとらえ方、議論の浅さをほめちぎる。
・いくらブクマしても足りないという(その時点ですでに数時間経過していたり)。
・「知ればもっと面白い」と他人にすすめるのに、わからない用語などをあえてそのまま説明なしに使う。
・ululunの悪口を自分で言うくせに、便乗して他人が言うと「おまえは何もわかってない」と言う。
皆さんは、そして皆さんのまわりのはてな好きは、どうですか?
上記の例に「そんなの当たり前じゃん」という人がやっぱり多いのでしょうか。もうちょっと若い、増田世代はまた、別なのでしょうか。
M先生のお葬式が終わり他の片付けに手が要るのかS子と相談したけどわからない。N先輩に聞くと君たちは学部生だからもう帰っていいと言われた。S子と帰ることにした。晩秋らしい小雨が降っていた。S子は僕に傘に入る?と聞いた。あまり考えもせず相合い傘で駅に向って歩いた。ママが傘持って行きなさいって言ったから持ってきたんだけど本当に雨になったわ。M先生って39歳だったんだって。中学生の娘さんがいるのよ。奥さんは高校の社会科の先生しているんだって。S子は何度も繰り返されてきた伝承のようにM先生のことを話し続けたが、突然立ち止まって、K君、U子さんと別れたの?と聞いた。
別れたよ。夏休み前。就職のことでもめちゃってさ。S子はそうなのと関心したように言ってから進学しないの、K君は進学するとばかり思っていたのに。彼女は僕を不思議そうに見てから、私も就職しようかな、それとも結婚しようかなと言った。
しばらく歩いて駅が見える坂道の所で僕は思い出したように誰と結婚と聞いてみた。S子はまた立ち止まって僕を見て。K君と結婚しようかなと思ってると言った。ちょっとばかり驚いた。冗談を言っているのだと思った。おなか空いたね。
駅前のお蕎麦屋さんに二人で入って二人ともたぬきうどんを頼んだ。お腹が温まると生きてる感じがする。食べ終えた後S子は細かいお金が無いから私に払わせてと言った。おごってもいいんだけど。
駅に着いて僕が吉祥寺まで二人分の切符を買って一枚彼女に渡すとプロポーズ受けてくれた?とS子は言った。プロポーズ。僕はなんのことかわからなくて黙っていると彼女は傘を落として僕に抱きついた。そして泣いた。20分くらい泣いた。僕は時々駅の時計を見ていた。先輩たちが来たらなんて言うだろうと思ったけどお葬式の帰りだしそんな気分も変じゃない。ぐるぐるとそんなことを考えながらS子が僕と結婚したいって言ったのは本気だったのかよくわからなかった。
S子が泣きやんでハンカチで目を拭いた。前髪に隠れているけど目の回りを赤くしたS子の顔は少し可愛そうな感じがした。目の腫れた感じが引くまで待ったほうがいいかもしれない。コーヒー飲んでいく?と聞いてみた。彼女は頷いた。
スパゲッティの匂いのする薄暗い駅前の喫茶店に入った。店員のおばさんが不審げにやってきたのでブレンド二つと告げた。S子はだまって俯いたままコーヒーを口にしなかった。鳩時計が六時を告げたのを僕は聞いていた。コーヒーも冷め切ったので行こうかとS子に声をかけるとS子は俯いたままU子さんとセックスした?と聞いた。しなかったよと僕は何も考えずに素直に答えた。催眠術にでもかかって本当のことしか言えないような雰囲気だった。S子はそうと言って僕を見た。
僕が傘を持って喫茶店を出るとまだ小雨が続いていた。S子はまた僕をぎゅっと抱きしめた。S子のお母さんが編んでくれたという黄色いカーディガンが濡れてしまうんじゃないかと僕は庇うように抱いた。また泣いてしまったら困るなと思った。
S子は小さく息を継ぎながらゆっくり私とセックスしようと言った。僕はどうしていいかわからなかった。そのまままうんと言いそうになった。それから私をお嫁さんにしてとS子は言った。僕は黙っていた。S子は僕の目の中探るように見て私処女じゃないのと言った。S子が誰と何時セックスしたのだろうと思ったとき遠く暗い空がゆっくりと渦巻いていくような感じがした。死というのは本当は怖いものじゃなくて、しっとりと人をセックスのように静かに包み込み巻き込んでいくものかもしれない。僕は少し濡れたS子の横顔の長髪に顔を埋めた。S子らしい石鹸のような臭いがした。
井の頭線の乗り換えのところで二人黙って立ち尽くし、それからなんとなく会社帰りの人や学生の雑踏に紛れて公園の方にあるラブホテルに向かった。雨は止んでいた。歩き出すとS子は少し微笑んでいるみたいだった。お金はあるのと手短に言ってきつく僕の手を握った。
ホテルの部屋に入った。ビジネスホテルみたいな感じの部屋に堅い大人たちの裸を毎日くるんでいたようなベッドが見えた。僕たちもあそこで裸で抱き合うのかと思った。それはそうなった。
初めてS子とキスした。唇の柔らかさに吸い込まれていくような感じがした。S子を好きになっていく自分がいたけどその自分が本当に僕なのだろうかわからなかった。
S子の額を覆う髪の毛を両手で上げると今まで僕の知らない大人っぽい女の顔になった。きれいだった。S子は私を裸にしてと恥ずかしそうに言った。濡れたカーデガンを脱がした。そしてブラウスを脱がせた。
ブラとパンティだけにしてから戸惑っているとS子が僕を脱がしにかかった。最後にS子はしゃがんでトランクスを降ろし勃起した僕のペニスの先を軽く吸うようにキスし亀頭の下を少し舐め上げた。S子がそんなことするなんてと驚くよりペニスの快感にもうだめだっていう感じになった。
裸の僕の前にS子は立った。おっぱいが小さいの、いや? そんなことはないよと答えた。そんなことないよ。本当。ブラを外そうと背に手を伸ばした時、前ホックになっているのに気が付いた。知恵の輪を外すようにブラを開くと掌で覆えるくらいの膨らみの白い乳房が現れた。乳首は小さなサクランボのようだった。左の乳首を軽く吸ってみた。U子の乳首ほど突起しない。U子とは上半身裸でペッティングしただけだったと思い出した。
僕はしゃがんでS子のパンティを少しずつ降ろした。こんな時S子はどんな顔してるんだろう思って見上げると優しく微笑んでいた。彼女の笑みに見取れていると、パンティはするっと落ちて、僕の目の前にS子の薄く柔らかに縮れた陰毛があった。その陰りの淵にS子の性器があるのだ。
二人とも立ったまましばらく抱き合ってそれからベッドに入った。S子は私の耳元でマイダーリンと言った。結婚は彼女の妄想のようなものかもしれない。僕がS子にのめり込んでしまえばその時僕は見棄てられてしまうんじゃないだろうか。怪我をした子犬のように不安で身体が縮むように思えて、その怖さから僕は彼女を強く抱きしめた。