2008-11-12

404 Blog Not Foundの書き手は筆を折ることを考えた方がいい。半分ほど。

404 Blog Not Found:言葉は何を乗せているのか

よいエントリだ。このブログの書き手の言葉に対する無関心、あるいは悲しむべき無神経さを端的に明かしている。

小飼は文章とその書き手の関係について無知だ。あるいは少なくとも、あまりに配慮が足りない。

突拍子もないことかと思われるかもしれぬが、感じたことを感じたままに書いておく。

以下は小飼と同じ日本語に生きる者としての感想だ。

誰でも、小学生くらいのときに「私は言葉を〈使っている〉のか? あるいは言葉に〈使われているのか〉?」というどうしようもない疑問を抱いたことがあるはずだ。私は言葉で考えたことを言葉で書いている。はたしてこれは私が本当に考えていることなのか、そうでないとすれば一体なんなのか。私の考えというものはどこから来たのか、と。

書き言葉を覚える頃に感じるこの漠然とした感触は、認識言語のどちらが先か、という設問にまで整理された問題ではない。これは単に、人間内面(そんなものがあるとして)が言語と絡みあいつつ出来上がってゆくものだという単純な事実を、幼い肉体が感得しているということに過ぎない。

具体的な経験は無数の形をとるだろう。誰もが人生のある時点で言葉不思議さに触れる。ここで書きたいのはそれだけのことだ。

だがこの経験は決定的なものだ。彼はその感触を通じてまず〈言語で〉語ることの困難を知り、自らの洞察が由来する暗部に触れ、〈言語を〉語る不可能を悟る。そしてそれを道具として語ること、それ〈について〉語ることに正面から向き合ってつまづいた人間が、なお人間として生きるための方途はその厄介な存在と必死に〈戯れる〉ことしか残っていない。これは彼自身が自覚的に行う選択ではもはやない。

こうして幼い者たちはいつの時代であっても常に大人を驚かせる詩人となる。また、彼らは毎日のように聞き手の深奥を揺さぶる語り部となる。なぜ我々は子供達の言葉に涙するのか。そしてなぜ彼らのように〈無邪気に〉言語と戯れることを羨望するのか。それは彼らの必死の戯れが放つ生の輝きが、我々のどこかに眠っている言語自我への畏れに共鳴しているからにほかならない。我々は彼らを通じて、はじめて言語不思議に触れ、途方に暮れた日のことを思い出しているのだ。

子供は主題ではない。

ここに書いておきたいのは、言葉に少しでも配慮しようとする者はその感触を忘れてはならないということだ。なぜならそれを感じ続けるということは、人間言葉の骨絡みの関係を最もシンプルに引き受けることであるからだ。

人間言葉の骨絡みとは、言葉は我々とともに今この瞬間も変化しているという、これまた単純なことだ。これはいわゆる言語の乱れとかそういう話ではない。たとえば、今だれかが〈たぬき〉と発言し、あるいは書いた瞬間、日本語の〈たぬき〉はそれまでの〈たぬき〉ではもはやない。それは彼が発したという歴史を背負う。そしてこの微細な変化は〈きつね〉や〈どうぶつ〉や〈やま〉や〈にほんご〉といった周囲に広がる言語の網の目に静かに拡がってゆく。そしてこの小さな波紋に触れない領域は存在しない。我々は今まさに言語の中で、言語とともに生きているのだ。

だからこそ、自覚的に何かを語ろうとする人間は、配慮せねばならない。当たり前のことだ。この配慮とは言語を配慮することであり、言語の網の中で生きる他者を配慮することだ。このことを自覚さえせずに何かについて、とりわけ言語への配慮について語ることができるとは思えない。

これを思うとき、小飼が何を思って「『文学者』」が言語の利用者であると述べているのか、私には見当がつかない。

言葉生業にするとは、自らの言葉に自らの生のすべてを託すことだ。とりわけ文学とよばれる言語を媒介にした人生には、文字通りの夥しい生命が費やされてきた。小飼は彼らが言葉をネジか何かのように「利用」して生きたと言いたいのだろうか。言葉について書こうとする小飼に私が感じる違和感はとりあえずこれにつきる。

果たして「鴎外」は「いい文章を書いた」のだろうか。

「『文学者』」とは「『言語利用者』」だろうか。一体だれが言語を「利用」し、「虐げる」ことができるというのか。

こう問うてもいい。一体だれが、自らの生を賭さずして真に言語を「傷つける」ことができるというのか。

そして一体だれに言語を「護る」ことができるというのか。

我々にできることは、言語とともに生き、言語と死ぬ気で戯れることだけだ。つまり、配慮することだ。

小飼は自分でもわかっているように、一生エンジニアとして生きるべきだ。小飼が言語と戯れる道はそこにあり、そこにしかない。

文学を語る資格がないと言っているのではない。上に書いたように言語を語り、文学に遊ぶ資格人間すべてにあるはずだ。

私は単に、みずからが言説に生きる身でありながら、言語に対してあまりに冷淡で不誠実な小飼の態度が気に入らないのかもしれない。

だが小飼が「日本語」と書くそ日本語に我々は生き、そしてその日本語を我々は死んでゆくのだ。

小飼という存在もまた言語であり、日本語なのだ。

今回のエントリはその後半だけについて、門外漢にもよく分かるように詳しく、言葉に配慮して語るべきだった。

それが人並みに日本語を使えるエンジニアとしての、日本語に対する、そして自らに対する誠実さではなかったのか。

鴎外に至っては、いくらいい文章を書いたところでその罪の大きさを拭えるものではないとすら感じている

重要なのは、たとえ「ナショナリズムと悲観と無知と傲慢さ」の果てであっても、やっと、そうやっと「文学者」という「言語利用者」の頂点にいる者が、言語利用者の底辺にいるものたちが面してきた問題と危機感を得たということそのものにある

日本語を虐げて来たのは他ならぬ国家であり、その走狗たる役人であり、その役人たちに一目おかれていた文学者たちであった

私が今使っている日本語も、「傷ついた日本語」である。なぜなら私は「傷つく前」の日本語を何とか読めても、書くほどの教養がないからだ。私の名前が「彈」ではなく「弾」なのも、実はその余波である

404 Blog Not Found:言葉は何を乗せているのか

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん