昨日気づいたこと。何か私って、相手に『責めないで』とか『あなたのほうが悪いんじゃない?』と言われやすい人だった。そういうのは私自身の容姿のせいだと思っていた。確かにそういう部分もあるとは思うけど、相手に何も言われずに優しくされることもたくさんあった。それで、ここ一年ノートに取りながらいろんな人と話し合いながら気づいたことがある。私は人に話すときに『いつも〜されている』や『ずっと〜だった』と話すように心がけていた。正直に事実を相手に全部打ち明けるほうが、相手にとっても自分にとってもわかりやすい話し方になり誠実だと思っていたから。私からしたら何気ない表現の一つだったけど、相手からすると『自分の根拠は間違っていなかった』という裏付けを私がしちゃってたんだな〜と。
私は相手に話す時に、いかに相手の悪口にならないか相手が傷つかないか誠実になれるかという基準で話していた。
だけど、相手には自分がないとか自分の意見を言えと言われることも多かった。あと、相手や自分の個人情報が特定されたら可哀想だと気遣いすぎて、問題の相手より自分の方が悪くなるような話し方や文章の書き方をしていたと気づいた。
少しでも長くなくて短く話して相手に迷惑をかけないようにしたい。そんな想いがあったためか、自分ではわかりやすいのに相手には何を言っているかわからない文章になりがちだった。
だから最近は思い切って、自分では悪口や嫌味だと思える事を相手にぶつけるようになった。私は自分ではすごく気を遣っていたつもりだった。ただ、私の言い方は結果的に嫌味に思われやすかった。前には『船橋に住みたいと思っている』といっただけで『千葉を馬鹿にしてんの?』とキレられたこともある。私は怒らないポイントだったし、どう返していいかわからずにポカーンとなってしまった。
私は今まで周りの人をとても賢いと思って話してきた。だから相手に釣り合うようにわかりやすいように賢く話せるようになろうとしてきた。
でも、なぜか『忖度ってなんですか?わかりやすい話し方をしてください』と言われたりする。
親にも何故か普通に話しているつもりが『私は生きる価値がないと言われている気分になる』と言われたり、出て行けと言われる事があった。
そこで、私は今まで話さなくて良いと思ったりほぼ言語化されていなかった感覚的な部分まで相手に話すようになった。たとえば犬のカレンダーを壁にたくさん貼ってるんだけど、私はその犬を見るたびその犬自身になっている感覚になること。今日はこの犬!みたいな感覚で暮らしている事。怒っていると言われたとき、私は無表情だったらしいけど私自身は超笑顔の感覚でいたこと、笑顔という表情自体嫌いでできれば相手には無表情でいてほしいことを相手にそのまま率直に伝えた。結果、相手はなぜか前よりも態度が良くなった。私にはよくわからない感覚だけど多分見下されるより見下せて嬉しいのかな?まあ、相手が喜んでいるなら嬉しい。そのくらい低レベルなので、少しずつ日本語の勉強をやり直していこうと思う。結婚も恋愛もできるかはわからないけど、確実に日々一歩前進している。少しずつ前を向いている。
気持ち以前に全体的に言いたいことが伝わってこないよ 抽象的な表現と具体例のバランスが最悪なんでは
リアル古見さんみたいな人なんかな
私ってばすごくいい人だから配慮した結果、相手が増長しちゃって損しちゃうの っていうアピールでしかなくて ほとんど被害妄想エピソードだと思うよ