きっと私たちが知らないだけで、昨日通りすがった女の人、レジで対応してくれた男の人、一緒に信号待ちをしたサラリーマン、スーパーでお菓子を選んでいた女の子、そういうちょっとだけ自分に関わったともいえない誰かが、今日この時にしぬことを選んでるかもしれないですね。
私も、一度しのうとおもっていました。
理由は伏せますが、とにかくもう現状が自力ではどうにもならないと思い込んで、今思えばそれ以外の道はあるのに、「しぬしかないなぁ」と思っていました。
「明日のごはん、何を食べようかな?」と「明日の夜、どこでしのうかな?」が同じくらいの悩みになっていました。
正直に言えば、私はその有名人の方はあまり知らないし、出ていた番組もあまり見ていなかったのですが、
ただその人が出ていた舞台作品でひとつだけ、いつか見たいなぁ、と思っていたものがあって、今後機会があれば……と考えていました。
人気があった舞台だから、再演もあるだろうなぁ、という考えです。
でももうその「いつか」は絶対来ないんだと知った時に、とてつもない喪失感がありました。
という一点だけで、です。
ファンというのもおこがましい、そんな私がです。
SNSやテレビやニュースで、その人がいなくなった事を嘆いている人たちがたくさんいました。
ツイッターでは私の知り合いも落ち込んでいました。
もちろんその有名人の方と交流のあった方々はもっと悲痛なお顔をしていました。
それを見て唐突に、「私がしんだら、もしかしてこの人たちに、同じくらいの苦しみを与えてしまうんじゃないだろうか」と思いました。
その有名人より私が価値があるとか、私の方が悲しんでもらえるとか、そういう事ではなく、
単純に、一緒に学校に行ったり、映画に行ったり、旅行に行ったりした友人を喪ったら、こんな苦しみを与えるんじゃないか?と思ったのです。
この文章で誰かのじさつを思い止まらせたいだとか、有名人のじさつの報道の是非を議論したい訳ではありません。
もしかしたら今後また視野が狭まって「しぬ」という道しか見えなくなるかもしれないので、その時に「でも私は踏みとどまれたよ」と思い出すために。
うるさいぞ人殺し