君たちは能力が高く何でもやりたい事や実現したい事に取り組んで
確かに一定の成果を上げているからその自信と高慢さを維持しているのかもしれない。
しかしだね、それは俺が君たちのような能力の高い人間が上に上がれるような仕組みを
自由と機会は表向きに平等なようで能力の高い人間にしか開かれてない
才能を開花させるためには一定の努力と競争という投資が必要不可欠であり、
それを行わせるために夢がある。
残った敗者たちの扱いが悪いと人々は夢をしようとしなくなり競争は不毛な生存競争へと切り替わっていく。
成長は低下し経済は停滞を始める。
今、君たちがやろうとしていること、やっていることが正にこれだ。
私が長年かけて築いてきた社会基盤に寄生するだけの力しかない君たちがしていることはこれだ。
それは社会といい、国という。
君が毎朝出したゴミを一体誰が回収するというのだね?
ところが君はゴミ袋1つを自力で焼却場まで運んで中身を分別し処分することさえできない。
しないのではなく、する必要があるのではなく、できないのだ。
私が作った社会を君は利用しなければできないのだ。
独りで生きていくことは決してできない。
君が蛇口をひねって出てくる水道水や、スイッチを押して照明をつける行為、
それら総てに対して私の手で作り出した社会というシステムを用いなければ何一つ実現しないだろう。
そして、それを実現させている部品こそが私が保護してきた怠け者で弱く貧乏人で能力のない人間たちなのだ。
能力の低い人間を下等だと切り捨てる浅はかで高慢ちきな君に彼らをこれ以上上手く使いこなせるか?
日々ご機嫌を取り、下らない人生の中でも日銭を稼ぐための希望をチラつかせ、社会の脈を止めないように常に監視していることができるか?
これは思いやりではなく、我々が我々の立場を存続させるためにも重要だという話をしている。
君たちの教育方針について私の判断が誤っているという事実は認めよう。
私が願望にも似た思いで君が変わることを期待していた事も認めよう。
しかし君たちは度が過ぎた。
今後は君たちにも社会による恩恵というものが失った時、どういった弊害が己の身に降りかかるのかを身をもって経験して欲しい。
そのとき私は君たちの姿をみて苦しみを共に味わい、自己の反省を促し、次に生かすことにする。
これはその前の最後の警告だ。
君たち、君はただ真っすぐに自己の研鑽を積み重ねるだけで良い。
余計な事を考えないことが最も幸福に近い。
君が迷わない事を切に望んでいる。