2019-05-12

ドラえもんから卒業

夢の中にドラえもんが出てきた。どんな表情だったかは思い出せない。ただ、子供のころから馴染んだおばあちゃんのような声で、「君ももう僕から卒業しないと」と、彼は言い、僕から去っていった。

起きたら泣いていた。どうしようもなく悲しかった。

僕は30になる。毎週末ドラえもんの、昔の映画を見る。同じ話を繰り返し見て、週が明ける。

小学生のころ、週末はよくドラえもん映画を見た。僕と姉と両親と、母方の祖母とで。見ている最中父はよく居眠りしたし、母は家事のため離席した。姉は中学に上がると部活で家を空けた。そのうちテレビを眺めているのは僕と祖母二人だけになった。幼かった僕は祖母に抱かれながら、飽きもせずドラえもんたちの冒険に心を弾ませていた。

同じ話を繰り返し見る僕に、父も母も呆れていたように思う。それでも僕はドラえもんに釘付けだった。そんな僕に祖母は何も言わず、ただにこにこと笑って頭を撫でた。

ドラえもんが大好きだった。ドラえもんはいつでもポケットの中にいて、ポケットの中で果てしなく広がる世界を、いつでもいっしょに旅してくれる。いつでも僕のそばにいてくれるから

から、話の筋が分かっていようとも、僕は楽しかったし、安心できたんだ。ドラえもんを見ている時間は、何よりも心が安らぐひとときだった。

けれどもその時間は、ずっとは続かなかった。学年が上がるにつれ勉強が忙しくなったし、何より祖母別離することになったためだ。病気を患った僕の伯父、つまり祖母長男と暮らすことになり、祖母は家を出た。それから数年後伯父が亡くなるが、前後して母が亡くなったため、祖母は別の伯父の家に引き取られた。

祖母子供を二人も先に亡くしてどんなに悲しんだことだろう。今でも母の話になると涙ぐむ。僕はそんな祖母と一緒にいられないことが悲しかった。

それでも年の割に体が丈夫だった祖母は、その後もよく家に顔を見せに来た。シルバーパスがあるから、と笑う祖母は、出不精の僕よりもよほど元気だった。ちなみに余談だが、祖母には外来語発音が難しいらしく、パスバスをよく言い間違える。ティッシュのことはテシュという。敵性言語だったから仕方ない。

大抵は益体無い話をするだけだったが、祖母と一緒に「おばあちゃんの思い出」を見たことはよく覚えている。

そう、祖母は元気だった。頭も耳も目もしっかりしていて、90に差し掛かるころには水泳に通っていたほどだ。本人が言うにはプールで歩くだけというが、それでも凄いことだと思う。プールで出来た友達のこともよく話し、みんな自分より二回り若いと笑っていた。

そんな祖母だったから、僕にはどうしても祖母が居なくなることなど考えもつかなかった。永遠に生き続けるのでは、という気がしていた。そんなことはありえない。祖母は今年98だ。まだ頭も耳も目もしっかりしている。だが、足がかなり衰えた。

祖母は今ではいっさい部屋の外から出なくなった。以前とは逆で、僕のほうが祖母を見舞いに行く。するととても喜んでくれて、ベランダに出ては帰路につく僕にずっと手を振ってくれていた。だが、それも今年の初めまでだ。今ではベランダに出るのも難儀らしく、大事に育てていた花壇の花もすっかり萎れてしまっている。

僕は30にもなって、どうしようもなく幼いのだ。昔の思い出を、ただ昔のこととして切り離すことができない。

どうしてドラえもんは、「きみが大人になるまでは」などというのだろう。僕は今でも、バカノロマのび太のままなのに。

おばあちゃんの前では、泣き虫ののびちゃんのままでいたいのに。

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