否定する前に見なければと円盤で何作品か見たし、観劇にも行った。決して悪くなかった。でも私が舞台で良いと感じるポイントは、その場面で焦点が当たっていなかったキャラクターの感情を、仕草や表情で表現してくれるところ。
そこ以外、本当は苦手なんだ。
舞台を好きな人がいるのは分かる。作品のことを考えて、キャラクターを理解しようとしてくれる。それをきっかけにキャストが作品を好きになってくれたらこちらも嬉しい。実際に見に行って、その部分でそういう表現をしてくれてありがとうとも思った。
でも、そこまで絶賛されるほど良いとは思わない。
あくまで私にとってはと前置きするが、キャラクター構成要素としての声の役割は大きい。声優は声優であり同一視はしていないものの、しかしやはり声は確かにキャラクターに違いがなく、その人以外にそのキャラクターを名乗られても否定的になってしまう。
顔は良い。分かる。でも、どう足掻いてもそのキャラクターの顔でもない。言葉の通り根本的に次元が違うのだから。
見た目も声もどちらも違うままで演じている人のことを、私はそのキャラクターとはどうしても思えない。
あくまで配役された人であって、何もかもが私にとっては違う。
演じてくれるだけでもちろんありがたい。でも、声も見た目も違うなら、それ以外のものでキャラクターらしさを演じてもらわなければならない。
それでは、そのキャラクターであるという贔屓目を無しに考えた演技力はどうなのか。キャラクターが好き、キャラクターを考えたコメント、キャストの仲の良さ。そんなもの関係無い。演者としてのスキルの話だ。彼らはファンではなく、公式に選ばれた舞台役者なのだ。
叫んだら裏返って、動きで表現したら代わりに台詞が煩雑で、抑揚を付けようと小声で喋ったら何を言っているのか分からなくて、アドリブかと思えば事故すれすれなんてことは無いか。
声も見た目も時には脚本も違う、設定と大筋だけを借りて、顔が良い人がファンサするものになってしまってるのではないか。
そもそも声が違うことを受け入れられない人間が、舞台を楽しめるわけがなかったのかもしれない。楽しめる人が楽しんだら良いし、私が苦手だろうが何の問題も無い。私が公式にとってのターゲット層から外れただけの話。そう思ってるから舞台化で盛り上がるタイムラインを努めてスルーしてきた。
それでも申し訳ないながらも言わせてもらいたいのは、顔が良ければみんなが好きなわけじゃないし、その作品が好きなら舞台も行くだろうという認識はしないでほしいということだ。
私にとってはあの声であの見た目なのがキャラクターで、声優だけでも、見た目を似せただけでも、演じても、どれもキャラクターと同一視なんてできない。
何でもかんでも実写化するこの風潮が早く終わればいいのに。