2018-06-25

ポリコレ不寛容境界線

最近色んな所でポリコレやら何やらの話題を目にするのだけれど、ポリコレクレーマー不寛容って紙一重ではないかと思う。

ヘイトなどの排他性に対するカウンターポリコレなのだろうけれど、どちらも他者思想不寛容という点では同じであり、

極論を言えば、いずれも「不快からやめろ」という所が根源になるとは思うのだけれど、これってどこまでが正当化され許容されるのだろう?

例えば私はとある病気食事制限がかなり厳しい。

糖尿病みたいなメジャー病気ではなく、過去に暴飲暴食をしていた訳でもなく、遺伝性のものらしいのだけれど、

以前は好物だった多くの食品摂取禁止されてしまっている。

となると当然、そういった禁止食品広告類は物凄く不快なのである

今はもう口に出来ないのに、視覚を通して味がリフレインするのが物凄く苦痛なのである

もっとも、だからといって個人的にはそれは仕方のないことだと割り切っているのだけれども、それはそれとして、

論理構造的な意味合いにおいて、私にも「食品広告不快からやめろ」と主張する権利はあるのだろうか?そこに正当性はあるのだろうか?

私みたいな病状の人間マイナーから、多数の益が優先されるべき?

それなら性的少数者も同じくマイナーなのだから、その他多数の表現の自由が優先されても良いのではないだろうか?

出生や性別などの変えようのない、先天的もののみが正当性を持つ?

それなら私の病気遺伝性で、後天的な要素が原因ではないらしいから、この病気故の不自由も先天性として正当性を持つ?

企業にも広告を展開する自由があるから、それを制限すべきではない?

それなら他のポリコレだって、良いかいかは別として、他者表現の自由制限している訳だけれども、私を不快にする広告は何故制限されるべきではない?

この辺りの論理構造が、個人的にはよく分からない。

  • いまサッカー観てるから後でな

  • そういうの「カワイソウランキング」で批判されてる。

  • それはさぁ、完全な論理は無いと思うよ 一軒一軒見て、主張が納得できるなら受け入れる、的なことだと思うよ。法律もそんな感じだしね。 あなたの病気のはちょっとさすがに「別に傷...

    • 流石に豊富な前例と明文化されたルールがあり、裁判所という明確な判断機関を持つ法律と同一視するのは無理があると思うけどな。 ポリコレは個々人が好き勝手に自分の感性で境界...

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