2018-05-01

人が人を罰することを禁止するだけで色々なもの解決すると思うのだ

まずいじめ問題

いじめる側の言い分を聞くと、おおよそいじめられる側に原因があってそれを罰することから始まっている。

いじめる側がいじめられる側に転じるのもこのロジックだ。

あいつは周囲に罰せられるだけのことをやった。だから自分たちの罰は許される。

いや、許されないだろう。

何の権利があって個人個人を罰することができるのだというのか。

つぎにインターネットで見られる炎上もこの構図だ。

あいつは変なことを言った。変なことをやった。だからあいつを罰することは許されている。

そういう勘違いをしている人間が、正論に見せかけた個人攻撃を平然と行っていると言えるのではないだろうか。

当然許されるべきではない。

どんな理由があっても人に危害を与えれば、それは罰せられるべきだ。

ただ、だからといって誰彼構わず罰を与えていいわけではない。

それをするのは司法であって、警察ですら罰を与える権利は持ち得ていないはずだ。

もとをたどると、個人的な罰はしつけに遡ることになる。

まだ十分に理解力が発達していない相手に対して、緊急の危険から実を守るために必要ものからだ。

しかし、それでさえ行き過ぎれば問題だ。

時代の流れ的には、身内同士でさえ罰を与えることは罪と考えられ始めている。

当事者同士ができることは、唯一、解決に向けた話し合いである。

お互いが罰を与え合えば、それはエスカレートを繰り返すだけで、何も解決しない。

報復したい気持ちをぐっとこらえて、それぞれの罪はどこにあるのかを話し合い、お互いが罪を認め合うことができれば、それ以上の報復必要としない。

どんな被害を被ろうとも、それが相手危害を加えていい理由にはならない。

危害を加えた時点で、それは罪でしかないのだ。

学校ではとっくの昔に教師が生徒に罰を与えることはできなくなった。

それで指導がやりづらいというのは詭弁しかない。

罰が与えられないからと言って罪を見逃すのではなく、それが罪であることを認めさせることはできるはずだ。

罪を認めることが出来れば謝罪につながり、被害があれば補償すべきだろう。

しかし、罪を犯したからといって、相手の罰を許してはならない。

それは一見誠実のように見せて、その実は問題解決を棚上げにしているだけに過ぎない。

戦争の原因だって同じだ。

相手の罪を口実に、罰という名目のもとに暴力肯定しているに過ぎない。

どの国にも属さない、国々に罰を与える存在が求められている。

それはもしかしたら、すでに人間仕事ではないかもしれない。

世界において私罰の全てが禁止されることを願う。

そうすれば、戦争に至る負の連鎖を止めることができるはずだ。

我々が問題に対してすべきことは一つ。対話による解決だ。

  • すげえ現代社会全否定だ

    • 進歩は現状を否定することから始まる。デカルトの言葉です。

  • 私罰を禁止して公法による刑罰に限るわけだよね? 毎年たくさんの法律や条令を作って国際法も制定する課程なんだけど、 利害の関係で国会で捌き切れていないんだよね。 で公の方で...

  • シンプルに狂ってる。 オレサマが法律の私刑社会が出来上がりそう。

    • ???真逆じゃない?それをやめようって話じゃないの?

      • 罰が与えられないからと言って罪を見逃すのではなく、それが罪であることを認めさせることはできるはずだ。 絶対的な罪が存在すると思われていた”神が生きていた時代”こそが人...

  • 昔「お上が罰してくれない悪を闇に葬る」仕事人シリーズというドラマがあってだな。

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