嫌いなものは大抵の場合は誰にでもあり、それは趣味嗜好であったり、言葉の選び方だったり、食べ物だったり、ある人だったり、様々です。
オタクのスラングでは「地雷」というのが一般的ですので、以降そのように記述します。
私は、そんな地雷を踏んでしまった人の対応に違和感を覚えることがままあります。
わかりやすい例だとカップリングや作品、キャラクターの解釈の違いから生じる地雷を踏んでしまったとき、その地雷を生み出し設置した人物に怒りの矛先を向ける人たちです。
声が大きいためにひどく悲観的に、あるいは攻撃的になる人が残念ながら目立って見えてくるのです。
ある作品を書いた人がいます。それが受け入れられなかった人がいます。
これ自体は、自由です。表現の自由がある以上、誰にもそれを止める権利はありません。
謝罪を要求したり、公に同好の士とともにその作品を、あるいはその表現者を攻撃し共感し合う行為は、表現の自由を逸脱した加虐性をはらむ報復行為です。
当然、大半の人はそうではありません。不愉快になりながらも、自分なりのやり方で折り合いをつけていきます。
人はどうしても主観の中で自分を主体に生きていくもので、視界に気に入らないものが入ったとき、自分という人間に悪意が向けられたと勘違いし、自分の意に沿わないものに攻撃的になることがあっても不思議ではありません。
しかし、何かを作った人と、それを不愉快に感じた人は同列であり、間違ってもお互いに何かを強制することはできないのです。
それで終わりなのです。
こうした人はきっと、傷つけられることがひどく恐ろしいのではないかと思います。
昨今の若者は怒られることに慣れていないと言われますが、それに近しいものを感じます。
繊細なガラス細工のような心を守るため、攻撃的にならざるを得ないのだと。
しかし、自分の痛みにばかり敏感で、他人を傷つけることに鈍感なままでいては、怒れるあなたの人間としての品位を貶めるのではないか、と思ってしまうのです。